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不思量−2 [気づき]

「箇の不思量底を思量せよ。不思量底如何が思量せん。非思量。此れ乃ち坐禅の要術なり。」(普勧坐禅儀)

  参考:「曹洞宗の坐禅」 「坐禅Q&A

 「坐禅のために坐禅をする」と言われています。「安楽の法門」(普勧坐禅儀)とあるように楽にならなければ間違った坐禅をしていることになります。足の具合が悪くて坐禅を組めない人は椅子に坐っての坐禅もあります。年齢・体型・聴力・視力・・・その他自身のできる範囲で自分に向き合えばいいということのようです。自己を観るのですから知識や知性は必要ありません。

 

・目的を持って坐禅をしない。「求心休むところ即ち無事

 平安(=混乱・葛藤のない)である「本来の自己」。

 何者かになりたい・何かを掴みたい・何かを得たい・・・という目的を持たない。目的は意味や価値を持ったものです。思考するということは「言語」を使わなければできません。意味・概念が付与されているのが「言語」ですから思考するということ自体が意味や価値を掴み取ろうとしています。

 世界は一様であったのですが、人間が存在を分離・分割して理解するために意味や価値を付与しました。それぞれの存在にレッテルとして「言語」を割り振って共通の認識としました。考えるということはすべて意味が伴うことなので何らかの目的となります。二元対立として分けてどちらかを是とし他を非としてしまいます。本来是も非もないのに是非を持ち出すので混乱・葛藤するのは当然のことです。

 思考は頭の中でやっていることなので、誰にも迷惑はかけません。頭で嫌だと思っても嫌なことが襲ってくるわけではありません。思いが起こったというだけです。誰かが思いによって身体に傷がつくことはありません。

 雑念が出てくるのは意が働いている証拠ですので放っておくしかありません。頭の中のおしゃべりに付き合うと意味や価値にこだわって分離・分裂して収拾がつかなくなります。

 40分間の間坐ると、別人になったり何かを掴んだり何かを得たりしたら大変なことです。こだわりがなくなっていくのが平安なのに、なにかを掴むことは反対(=葛藤)のことを望んでいることになります。

 

 目的があるということは、今の自分に不足感を感じているからかもしれません。不足を満たして悩みを解消したい。坐って不足分がどこからか補充されるようなことはありません。自分を変えたい、自分を救いたい・・根底には自分を責めていないでしょうか。許せない自分を許せる自分に引き上げようとしても、思いで引き上げることはできません。それよりも許せない自分でOKと言ってやればどうでしょうか。「今の事実のままでOK」それで終わりです。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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