SSブログ

不思量 [気づき]

「箇の不思量底を思量せよ。不思量底如何が思量せん。非思量。此れ乃ち坐禅の要術なり。」(普勧坐禅儀)

 

 自問です。

1.眼前の事実は一つでしょうかそれとも二つ以上あるでしょうか。

 事実は不二であり無分別(=分別されないまま)にあります。一つの事実を認識してから分別(=いくつにも分かれる)が起こります。

 例えば、”月”はどんな小さな水滴であろうが大きな湖面であろうが二つに映し出されることはありません。誰一人として月が二あるという人はいません。誰もが無我無心で無分別に見えています。こちらに自分がいて自分が考えてから見えているのではなく、考える以前に見えています。考えは見えた後から起こります。

 事実の後で、自身の置かれた状況に応じて分別がおこります。一つの事実がいくつにも感じとることができます。気味の悪い月、清々しい月・・・・・。

2.真理を掴んだり、真理を説くことができるでしょうか。

 我々は真理から離れたことはありません。真理が隔離されてヒマラヤに保存されているわけではありません。手で空中のどこかを掴んでも何も変わりはしません。もし真理を掴んだのなら、掴めないのは真理ではないということになります。私は掴んだということは、掴んだ以外を取り逃がしているということです。真理のまっただ中にあるので掴むこともできないし取り逃がすこともできません。

 「魚は水中にありて水を知らず 人は妙法にありて妙法をしらず」

 

 誰かが文字にしたとして、その文字は真理を顕しているでしょうか。誰かに知られたもの(=対象)は意識が働いて言語にされたものであり客観的なものです。真理は対象化される何かではありません。今ここの主観そのものです。主観であるハタラキそのもの(=真理)は口を動かしている当人でありキーボードを叩いているその動きそのものです。言葉(=音)や文字(=形)は真理そのものでなく、意識の対象(見られるモノ)である記録でしかありません。

 他人の食レポで”美味しい”と聞こえたとして、その音を聞いて自身も”美味しい”を体感できるでしょうか。言葉自体は月を指し示す指(=言葉)であって月を見ることとは異なります。いくら指(=言葉)を見て思案しても実際の月を見ることはできません。”無分別”と何度唱えても”無分別”を体験することはできません。文字は文字であって自らの体験そのものではなく、他者の体験を概念で現しただけのことです。般若心経を読経することで感得することは????

 

 道元禅師は人は「本来本法性天然自性身」であるのに何故修行しなければならないのか悩んでいたそうです。修行によって「いまだ修せざるには現れず、証せざるには得ることなし」と感得されたようです。

 発見とはdiscoverであって、はじめからあるものなので覆いを剥がせば自然と現れるものです。では覆いとはどのようなものなのでしょうか。

 人は3歳頃から、親や周囲の人の言葉を沢山覚えて使いこなすようになります。また概念も理解できるようになるようです。赤子の時は見えるだけ・聞こえるだけであって、意味も価値もない一様な世界を体験していました。その一様な世界が分離・分割されていて個々に識別された存在(=識別される対象)の集合体だというのが大人の世界です。子供は大人に世界は分離・分割されていて見られ・知られる対象であると教えられます。

 あらゆる存在に識別名がつけられていて、識別名(=名前)を言うことで大人から褒められるようになります。知ることで自己承認が満たされるので、とても心地よく感じます。大人は悪いこと(=されては困ること)と善いこと(=困らないこと・大人にとって都合のいいこと)を教え勧善懲悪を躾けてきます。

 

 赤子のときは、六識と純粋意識(=阿頼耶識)がダイレクトに繋がっていました。成長するに従って行動範囲が広がると、人間社会で上手く立ち回らなければなりません。自我(=末那識)によって我が身を守る術を身につけなければならなくなります。小さな我が身を守る意識が働き、”自分かわいい”に徹しなければなりません。自然と裏と表を使い分ける、二元性を身につけるようになります。大人の世界に順応できるように平気で嘘をつけるようになっていきます。大人の世界を学習して適応するようにフィードバックされ自我は更新され続けます。「世界は分離・分割されたモノ」「私も個人として身を守らなければならない」。二元の世界(=迷い)を是として生きなければなりません。

 あらゆる事象を二元対立的に捉えるように脳が働くようになっていきます。二元対立を混乱ではなく当然のこととして疑うことがなくなります。良い悪いで世の中が成り立っている。大人と同じように振る舞うようになります。二元(=相対)に見てしまう自己となってしまいます。知識を蓄え、人よりも多くの収入を得れば幸せになると思い込むようになります。二元性が進んで極端になると、虚栄心が大きくなりただ所有するためだけに大金を投じることも厭わなくなります。アイデンティティこそが唯一の自己証明であり、すがりつくようになります。いつかは奪われるか捨て去らなければならないので、大きなギャップ(苦)となってしまいついにはアイデンティティも社会から奪われてしまいます。会社であれば退職によってアイデンティティを奪われ、肩書の通用しないただのおじさんとなってしまいます。

 

 事実は不二であるのに、わざわざ二元(=相対)に分けて苦しんで(=混乱・葛藤)いることに気づかなければなりません。痛いは痛いで終わり適切な処置をすればいいだけです。しかし、二元で思考する癖がついているので何かのせいにしようとします。”痛い”と一つになって”痛い”を味わい尽くせば終わるのですが・・・。二元(=相対)に分けてしまう脳の癖によって「思考のループ」が始まります。憂さを晴らすにはどうすれば良いのかという解決方法を探すようになります。

 物事は勝手に起こっているだけなのですが、二元に分ける癖があるので意味や価値がなくてはなりません。”何のために”・”何の価値がある”というふうに自然に自我が働いてしまいます。覆い(=自我)を払いのけると何があるのでしょうか。

 自我は、目的がないと困ります。やることがないというのが自我のやりがいを削ぐことになります。坐禅のために坐禅をするというのは自我にとって一番の苦痛です。秀でた者になろうとか素晴らしい心境を手に入れようと勝手にすり替えてしまいます。何にもならないというスタンスを貫きます。

 

・阿頼耶識はただ気づいていて認知するだけのハタラキであり、二元対立(=善悪・・・)を判断するわけではありません。

・世界という対象(=客体)と世界を見ている私(=主体)という二元対立として捉えるようにしているのが末那識(=自我)。

・末那識(=自我)は”自分かわいい”であり、事象を二元的に捉え執着か忌避によって身を守るように働く。

・末那識(=自我)によって混乱・葛藤が起こっているが、保身のために働いていると主張する。

・諸行無常であって、末那識(=自我)の”思いの通り”にはならないので”苦”を痛感するようになる。

・末那識(=自我・自分)は”苦”を解決するために精神修養を手助けする。

 

思量:考える、分別する

不思量=思量しない。分別しない。無分別。

非思量=思量することにあらず。考えることではない。静寂

概念:物事を言葉で定義して共通の認識

観念:人それぞれの経験や文化や家庭や環境によって抱く個人的な思い

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


nice!(45)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

nice! 45

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
老子-69老子−70 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。