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今に生きている [気づき]

 ”老い”は若い時や若い人と比べて自らを見ることで”老い”となります。”老い”を受け入れずに”若さ”を求めて”何とかしよう”とすることで葛藤が起こります。何かと比べると今の自分と、比べた自分の二つに分離してしまいます。今のあるがままの本当の自分と、何とかして達成できるであろうイメージの自分です。現実の自分よりもイメージの自分になろうと私(=我)が働き主導します。現実の自分はさておき、イメージの自分が目標となってしまいます。現実の自分より、イメージの自分の方が本当の自分であるかのように振る舞っています。

 「百丈野鴨」という公案にあるように、知って応答している自分こそが本当の自分だと勘違いしています。”飛んでいる”も”何か”も認知できている自分を振り返ってのことであって、見えているモノは自分自身そのものです。

 教えられた記憶の中から「野鴨」と一致したので応答しただけです。自然に思考しているのが自分だと思い込んでいます。イメージしているのが本当の自分ではなく、今ここで働いている何かが本当の自分かも知れません。一切のアイデンティティのないただ見えている聞こえている何か・・・。

鼻をつねられて自己の所在を知らされたのでしょうか。

 

 今という現実には今・過去・未来が同時にあり、この現実と頭の中にあるただの記憶(=過去)と希望(=未来)が同居しています。今はちょっと前の過去から見ればちょっと未来であり、今はちょっと先の未来から見ればとっと過去です。時間という概念を持ち込めば、たった今は今・過去・未来が同時にあります。過去は過ぎ去ってあとかたもなく消え去ってしまっているし、未来がどこからからくるわけでもありません。新しい未来が今に入れ替わり、その未来が今を行っているわけでもありません。未来を設定し何かを描くことで悩むことになります。

 ”1”はどこにもないのですがヒトが都合よく何かを”1”としているだけです。”1”を持ってきて下さいといわれても持ってくることはできません。”1”は何にでも定義できるのでどこにもあるので、どこかにあるということはないことになります。”時間”もヒトの都合で考え出したものであり、所有することも売買することもできません。

 ヒトは思い(=妄想)の方が主であって現実が従であり、現実を思いの通りに変えたいと願っています。現実は受け入れるとか受け入れられないという前に、すでに現実を生きていることに気づくことがいいのかもしれません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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