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観察し続ける [気づき]

 欲求は満たされていない状態(=欲求不満)があり、欲求を解消するためにに行動を起こす。生理的欲求(食欲・睡眠・排泄・種の保存等)・安全欲求・社会的欲求・承認欲求・自己実現欲求(=マズローの欲求5段階説)

欲望(=desire)は足りていないという思いを満たしたいという気持ちです。

 

 動物は「今」だけに生きていて「未来」について思いを馳せることができず、未来を憂いることはありません。動物には「明日」という概念がなく、人間が抱くような将来に対しての「不安」で悩むことがないのかもしれません。欲求が満たされれば充分であり、明日の分まで捕獲しても腐ってしまうか横取りされてしまいます。植物も1年分の水を根のどこかに貯蔵することはありません。人は思考によって未来設計ができるので、未来に備えたり憂えることができます。夢もありますが絶望もあるということなのでしょうか。

 欲望の反対語は無欲・虚無・無我・無心のようですが、無我の反対語は煩悩(=自我)です。自我は対象を認知する認識する主体があり、自らが境界線を持っていると堅く信じていることです。対象を認知した瞬間に二元対立に分別します。人間も所詮は動物であり状況に反応しなければなりません。闘争・逃走反応fight-or-flight response)によって身を守らなければなりません。

 人間は道具を使うことで効率よく狩ができるようになり、火によって短時間で消化することができるようになりました。狩りと調理の時間短縮によって、多くのエネルギーを脳の発達のために使えたかもしれません。人は未完成のまま生まれてくるので、どのような環境にも順応できるようになってるのかもしれません。周りの人々の庇護の元でどのようにも染められる可能性があります。

 言語を獲得したことで、擬自己としての私(=我)というものが自動的に創られ身体的反応から思考して応答することができます。この思考によって創られた私(=我)は、どんな虚構でも受け入れることができます。過去や未来はどこにも存在しないのに「ある」と仮定して思うことができます。

 何度も書いてきましたが何かを”得たり・掴んだり”というのは思考している間だけであって事実は何も得ることもできないし掴むこともできません。もし掴んだものがあればその掴んだモノを現出できるはずですが・・・。ただの概念であって何も握っていない”空手”のままです。いつでも両手は塞がっていません。握っていては手を働かせることができません。

 

 量子力学では、素粒子がぼんやりとした霧の塊ように存在しており、観測を行なうまではその厳密な位置や速度などの状態を確定できない。人が観測していない素粒子は、見るまでは存在していない。素粒子は我々が観測することで実在として認識できるということのようです。

 素粒子はどこからどこまでという境界はありません。観測した時点で現れるのですから各個人が見えている世界がそれぞれに存在していても不思議ではありません。

 極端に言えば、どこにも境界のない大海の中でひと粒の水滴(=個々人)が様々なモノを見ているのかもしれません。宇宙全体が一つとして存在しているのに、私(=我)だけが分離して存在できるわけがありません。事実、宇宙の一部であり宇宙そのものとして存在しています。どことでも繋がっているのに繋がっていないと証明できません。ウィルスは我々が繋がっているということを教えてくれているのでしょうか。自分だけが感染しないということはありません。欲望や恐怖によって分離感が増長されます。分離しているという思いを追随せずに、出てくる思いをただ観察し続けることで分離の嘘が暴かれるかも知れません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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