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観察者のいない観察 [気づき]

 私たちの問題(=不平不満・苦悩)はどこにあるかと言うと、頭の中で比較することで作り出された思いではないでしょうか。ありもしない過去や未来を頭の中で勝手に想像して比較することで問題を作り出しています。自身の思い(=こうあるべき)という観念(=決めつけ)のほうが優先されることで起こっている個人的なことです。誰が何をどのように考えているかなどサッパリ分かりません。”自分かわいい”を最優先して勝手に問題として勝手に悩んでいるのかもしれません。現実(=事実)は自らの悩みなどお構いなしに変化変容しているのに、自らの悩みは頭の中でグルグル回るばかりで解決することはできません。何故なら、自らの思いの通りに現実が動くことはないからです。(一切皆苦)

 「無い」ことを「有る・在る」として疑わうことなく信じていることが原因かもしれません。本来「無い」という概念は使われるべきではないのですが、「有る・在る」という概念を説明するために必要とされた概念かも知れません。「有る・在る」を打ち消す概念であって、もともと無いモノに「無い」ということはできるでしょうか。

 時間も場所も関係なく、誰かがどこかの「空間」を指さして”無い”と言ったとします。”何が無いのですが?”と聞き返すのではないのでしょうか。何かが”有った・在った”から「無い」が使われるという暗黙の了解があります。「死」があるという前提なので「生」があると思いこんでいます。自らの「死」を認識できれば、死んでいません。自らの「死」を認識できないということは自らの「死」はあるとかないとか分からないということになります。ただ、他人の「死」を認識できることで自らの「生」があるということにしているにすぎません。

 全て頭の中で繰り広げられている「有る・在る」と比較しているだけかもしれません。「得る・成る・掴む」というのも頭の中で描いている妄想であり実体のないことかもしれません。

 この画面に表示されている文字を書いている人が存在している筈であるというのは不確かな想像でしかありません。想像であって入力している人の存在を確かめることはできません。「写真」が掲載されていたとしても、ある瞬間の「写真」であって、状況はまった変化してその写真を撮った瞬間は消滅しています。芸能人の方の訃報を耳にすることで、「生きていた」と思い込んでいた過去の記憶が間違いであると気づきます。

 極端に言えば、他人は存在していると思い込んでいるだけで、確認できた瞬間にだけ存在していると認識されるだけかもしれません。今まで行ったことのない町内を散歩すると、初めて見る家や人を見ることができます。今歩いている道を歩くことがなければ、初めて見た人をもう二度と見ることはないかもしれません。存在していると認識できたのは瞬間でしかありません。記憶はいつしか消え去るので、散歩中に見た見知らぬ人の存在を確認することはできません。つまり、記憶がなくなってしまえばさっきの見知らぬ人が居たということは消滅してしまいます。極端に言えば瞬間瞬間に現れている”幻”を見たり触れたり聞いたりしているだけかもしれません。

 何十年ぶりにお互いに再会してみると、別人だということがはっきりします。頭の中に抱いていた記憶が間違いだと分かります。しかし、私たちは記憶や思いが正しい(=拠り所)ことであるとして比較してはいないでしょうか。世界は変化しているのに、記憶に現実を合わせることは間違っています。

 事実のままが生滅しているだけであって、事実のままに乗っかっるしかないのかもしれません。”頭のお喋り”につき合わずに、ジッーとして何が起こっているのか見守って見るのもいいかもしれません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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