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箭によりて [阿含経]

かようにわたしは聞いた。

ある時、世尊は、ラージャガワ(王舎城)のヴェールヴァナ(竹林)なる栗鼠養餌所にましました。

その時、世尊は、比丘たちに告げて仰せられた。

「比丘たちよ、まだわたしの教えを聞かない凡夫も、楽しい受(感覚)を感じ、苦しい受を感じ、また、苦しくもなく楽しくもない受を感ずる。

比丘たちよ、またわたの教えを聞いた聖なる弟子も、楽しい受を感じ、苦しい受を感じ、また、苦しくもなく楽しくもない受をも感ずる。

そこで、比丘たちよ、わたしの教えを聞いた聖なる弟子と、まだわたしの教えを聞かない凡夫は、なにを特異点となし、なにを特質となし、また、なにを相違とするであろうか」

「大徳よ、われらの法は、世尊を根本となし、世尊を眼目となし、世尊を依拠となすのであります。願わくは、そのことについて、われらのために説きたまわんことを」

「比丘たちよ、まだわたしの教えを聞かない凡夫は、苦なる受に触れられると、泣き、悲しみ、声をあげて叫び、胸を打ち、心狂乱するにいたる。けだし、彼は二重の受を感ずるのである。すなわち、身における受と、心における受とである。

比丘たちよ、それは、たとえば、第一の箭をもって人を射て、さらに、また、第二の箭をもってその人を射るようなものである。比丘たちよ、そのようにすると、その人は、二つの箭の受を感ずるであろう。それとおなじように、比丘たちよ、まだわたしの教えを聞かない凡夫は、苦なる受に触れられると、泣き、悲しみ、声をあげて叫び、胸を打ち、心狂乱するにいたる。けだし、彼は二重の受を感ずるのである。すなわち、身における受と、心における受とである。

 すなわち、苦なる受に触れられると、彼は、そこで瞋恚(いかり)を感ずる。苦なる受にたいして瞋恚を感ずると、眠れる瞋恚の素質が彼を捉える。また、彼は、苦なる受に触れられると、今度は欲楽を求める。なぜであろうか。比丘たちよ、おろかなる凡夫は、欲楽をほかにしては、苦受から逃れる方法を知らないからではないか。そして、欲楽を欣求すると、眠れる貪欲の素質が彼を捉える。彼は、また、それらの受の生起も滅尽も、あるいは、その味わいも禍いも、あるいはまた、それからの脱出の仕方も、ほんとうには知ってはいない。それらのことをよく知らないからして、苦でもない楽でもない受から、眠れる無智の素質が彼を捉えることとなる。

 つまり、彼は、もし楽受を感ずれば、それに繋縛せられ、もし苦受を感ずれば、それに繋縛せられ、また、非苦非楽なる受を感ずれば、それえに繋縛せられる。比丘たちよ、このようなおろかなる凡夫は、<生により、死により、憂いにより、悲しみにより、苦しみにより、嘆きにより、絶望により繋縛せられている。詮ずるところ、苦によって繋縛せられている>とわたしはいう。

しかるに、比丘たちよ、すでにわたしの教えを聞いた聖なる弟子は、苦なる受に触れられても、泣かず、悲しまず、声をあげて叫ばず、胸を打たず、心狂乱するにいたらない。けだし、彼はただ一つの受を感ずるのみである。すなわち、それは、身における受であって、心における受ではないのである。

 比丘たちよ、それはたとえば、人が第一の箭をもって射られたが、第二の箭は受けなかったようなものである。比丘たちよ、そのようだとすると、その人は、ただ一つの箭の受を感ずるのみであろう。それとおなじように、比丘たちよ、すでにわたしの教えを聞いた聖なる弟子は、苦なる受に触れられても、泣かず、悲しまず、声をあげて叫ばず、胸を打たず、心狂乱するにいたらない。

 けだし、彼はただ一つの受を感ずるのみである。すなわち、それは、身における受であって、心における受ではないのである。

 

 だから、彼は、苦なる受に触れられても、そこで瞋恚(いかり)を感じない。苦なる受にたいして瞋恚を感じないから、眠れる瞋恚の素質が彼を捉えない。

 

また、彼は、苦なる受に触れられても、欲楽を求めない。なぜであろうか。比丘たちよ、わたしの教えをきいた弟子は、欲楽をほかにしては、苦受から逃れる方法を知っているからではないか。そして、欲楽を願わないから、眠れる貪欲の素質が彼を捉えないのである。また、彼は、それらの受の生起も滅尽も、あるいは、その味わいも禍いも、あるいはまた、それからの脱出の仕方も、よくよく知っている。それらのことをよく知っているからして、苦でもない楽でもない受から、眠れる無智の素質が彼を捉えるようなことはない。

 つまり、彼は、楽受を感じても、繋縛せられることなく、もし苦受を感じても、繋縛せられることなくしてそれを感ずるのである。比丘たちよ、このようなわたしの教えを聞いた聖なる弟子は、<生によっても、死によっても、憂いよっても、悲しみによっても、苦しみによっても、嘆きによっても、また絶望によっても繋縛せられないのである。詮ずるところ、苦によって繋縛(けばく)せられない>とわたしいう。

 比丘たちよ、わたしの教えを聞いた聖なる弟子と、まだわたしの教えを聞かない凡夫とは、これを特異点となし、これを特質となし、また、これを相違となすのである。

 

賢き者は受によりて動かず
智ある者は苦楽に揺るがず
賢者を凡夫にくらべなば
天地霄壌(しょうじょう)の差異のあるなり

法をさとりて智慧ふかく
この世かの世を知りつくし
快楽に心をまよわさず
苦難に心ひるむことなし

心にそうも、そわざるも
みなことごとく消えはてて
清浄無垢の道を行き
彼の岸にこそ立てるなれ 」

南伝 相応部経部36-6 「阿含経典三巻 増谷文雄著 筑摩書房」

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 禅の公案には様々な物語があります。公案を読むと何らかのイメージを抱くのも人間の癖です。問題は外(=対象)にはなく、自身(=思考)が問題を作っているということに気づかされます。

 「無字」の公案では問題自体が「無」であるということに気づき、「野鴨」では見えていること自体には問題は無いし、「隻手の音声」では聞こえている音自体には問題はないということでしょうか。問題にしている「我」が問題だと気づいてほしいのでしょうか。

 勝手に働いている五感なのに、意味がある対象であると決めつけています。自分にとって益になるなら取り込み無意味なら排除しようと「我」が働く癖があります。第二の箭(=反応すべき)として分別してしまうスピードがあまりに速いので分別しているとは気づかないかもしれません。教育によって思考することを推奨し、優秀であるとされています。二元対立として分別することで悩んでしまいます。自らが問題を作っているなど思ってもいません。

 ただ見えている聞こえているだけなのですが、見ようとしている自分(=我)・聞こうとしている自分(=我)・・が働いて、”何とかしたい”と葛藤・混乱・苦悩に振り回されているのではないでしょうか。

 日本語を聞いて意味があるとしているのは日本語を憶え習っている人だけであって、日本語がチンプンカンプンな外国人には何を言っているのかサッパリ分かりません。日本語で悪口を言われても「知らぬが仏」です。最近のCMにカラスの鳴き声が「au」と聞こえたら大変なことなのですが・・・。

 「隻手の音声」は聞こうとしなくても即今聞こえているあらゆる音ではないでしょうか。冷蔵庫から聞こえる音・車が走っている音・ストーブの音・人の話し声・TVから聞こえる音・・・散歩中なら様々な音が勝手に聞こえてきます。聞こうとしなくても聞こえてくる何の問題とならない音。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>



 

 

 


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