私達は、誰もが既に”本来の自己”(=気づきそのもの)であるので、わざわざ”本来の自己”を探し出す必要はありません。絶えず”本来の自己”(=気づき)とともにあります。何とかして”本来の自己”を探し出そうとしますが、”気づき”は気づかれる対象(=客体)となりえないので探すことはできません。気づく主体が客体になりえないのです。眼が眼を見ることができないのと同じことです。


 絶対主体である”気づき”は”苦”を感じている客体ではありません。全ての生命体は”苦”を逃れ”楽”でいたいものです。”苦”と感じなければ”楽”であって、”楽”を求めようとすればどうしても”苦”が立ちはだかります。権力・地位・名誉・財力・・・を求めようとする渇望があるかぎり、その渇望との葛藤(=ギャップ)によって苦しむことになります。権力を失うことが大きな苦痛となる人にとっては、権力に執着することになります。社長を退いても会長として権力を持っていたい。


 「悟る」ということは「悟っていない自分」をこしらえなければ実現しません。幼児は「悟る」ことはできません。なぜなら、「悟っていない自分」がどういうものか定義できないからです。大悟も小悟もないのですが、数十年の月日をかけた大疑団のご褒美として「大悟」と言ってあげなければなりません。  


 何十年も迷ったはてに「悟り」なんてなかったという大きな衝撃を「大悟」と表現してやらなければ報われません。迷いが悟りを作り出していたことに気づきます。悟りを目指しているから向上心があるのではなく、迷っている自分が許せないからかもしれません。「迷悟」は一枚のコインの表裏であってセットになっています。迷いがなければ悟りもありません。


 


 お釈迦様は王子の生活を捨てて、すべてをやり尽くした後で「悟り」を開いたとされています。これ以上ないストーリーによって「悟り」が命の次に価値があるかのようにされるようになっているのでしょうか。キリスト・ムハンマド・・・それぞれに壮大なストーリーがあることによって権威づけされていることに気づく筈です。大きな苦難があればあるほど人の心に訴えることができます。記憶に残り崇拝に値する人物像ができあがることになります。命を削って修行したおかげで不思議な力を授かった特別な人だとか・・。お決まりのパターンです。


 もし、荒行の見返りがなかったらどうでしょう。滝に打たれたり数百キロを走ったりする犠牲があるからこそ見返りとしての達成感があります。他人が敬ってくれます。この艱難辛というストーリーによって、人間心理の深い部分が動かされて操られているかもしれません。


 


 世界は常に移り変わっていて、同じ状況が続くことはありません。エントロピーの増大によって元の状態に戻ることもありません。誰かの心境も常に変化しています。誰かが達成した心境と同じになりたいと考える人がいるかもしれませんが、変化している刹那の心境を保持することなどできないし他人の心境など知るすべもありません。できるとしたら”無”の心境や熟睡時の捉えることのできない状態だけかもしれません。何も思い浮かばずに、只見えている・只聞こえているということであれば同じ体験をしていることになります。見えていることに価値や意味をつけづに見入っていることは体験できます。


 音を聞いたりモノを見たりすることで、ある心境に達したとしても一時的なことであってしばらくすれば消え去ってしまいます。


「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」


 言葉(=音)を聞いたり文字(=モノ)を見たりすることで、何者かに変化したり何かを得たり掴んだりできるというのは思考によって作り上げている物語かもしれません。


 極端に言えば、聞いたことのない言葉は鳥の鳴き声を聞くのと同じようなことです。見たことのない文字は葉っぱの形を見るのと同じようなことかもしれません。ただの音が聞こえてただの形が見えているだけです。フランス語で書かれた聖なる書を見て心境が変わることはありません。フランス語でありがたいお話を聞いてもチンプンカンプンです。母国語の聖典やありがたいお話を聞いて何かを得たり掴んだり、何者かに変化できるのならいいのですが。高等教育を受けた人がどうして何年も修行しなくてはならないのでしょうか。


 聖典は読みきれないほどの数があり、ありがたいお話はいつでもどこでも聞けるようになっています。始祖といわれる人から何千年も経過していながら、言葉や文字で伝えられないということはどういうことでしょうか。伝える人が悪いのか受け取るほうが悪いのでしょうか。言語自体に問題があり、伝える以前に互いに勘違いしていのかもしれません。文字にした時点で偽物ですので、その偽物を見て本物を味わうことはできません。ある人の感覚を”温かい”と文字にして、”温かい”という文字を見た人がある人の感覚をそのまま感じられたら大変なことになります。”苦しい”という文字を見て苦しむのなら、”苦しい”という文字を目にしたいとは思いません。


 苦労(=修行)しなくては達成しなということが刷り込まれているかもしれません。修行や知識や思考によって救われることができると思い込んでいないでしょうか。経典の知識で救われるのなら、救われない人の方がどうかしているということになります。


 選択肢が多ければ多いほど悩むことは多くなるのではないでしょうか。決められた通りに生きていけば選択や執着から離れることができます。問題があるのではなく、問題としていることによって問題となっていないでしょうか。


 遊び回っている小学1年生が大人のように、儲けようとか偉くなろうとか考えることがあるでしょうか。子供には、大人のような悩ましい問題が多くはないようです。


 


 得て掴んで達するという思考を逆転させて、得よう掴もうとしていることを諦めれば掴もうとする執着が剥落します。権力を得ようとすることからかけ離れている人は権力を得ようという渇望から解放されているので、権力を得ようとかしがみつこうという問題はありません。


 禅寺では所作が決められているので、選択する必要が無くいちいち悩む必要はありません。世間から離れているので、世間からとやかく言われることもありません。権力・地位・名誉・金銭・食事の心配・・から解放された環境にいるので、それらは問題とはならずに修行に専念できているようです。


 


・聖者であるには、艱難辛苦のストーリーが必要とされます。


・だれもが変わらない本質である”気づき”が備わっています。誰もが”仏”(衆生本来仏なり)


・向かえば背く。得るようなことではないのに得ようとする。


 


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>