マインドフルネスの普及に貢献したティク・ナット・ハン氏が22日に亡くなりました。残されたことばのを掲載させていただきます。


 


 私たちは「いまここ」にある幸せを見ずに、幸せが未来にあると信じているため、いつも走ることが習慣になっています。走らないで止まってごらんなさい。今のあなたは、そのまままで素晴らしいのです。他の人になろうとしないで下さい。あなたが探しているものは、すでにあなたの中にあります。


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 人は未来に思いを馳せることが出来るので希望と絶望を妄想することができます。動物は今だけを生きているので、未来に絶望することはありません。未来に希望だけがあるかのように考える傾向があります。時間は連続した線のようなものではなく、「今」という前後裁断されている刹那が生滅しているのかもしれません。時間を掴んだり得たり分け合ったり保存したり、どこかから持ち帰ったりすることはできません。どこかに「ある」というものではなく「時間」という概念を使って「ある」かのように扱っているだけかもしれません。


 他の誰かになることも出来ませんし、他人がやったこと思ったことは自分ではありません。(他は是れ吾にあらず)自分を観察して「今の自分をよりよくしよう」という”私(=我)”がアレコレ忠告・助言・指導・心配・・・して”何とかしよう”としていないでしょうか。


 三歳頃になると実体のない”私(=我)”が思った時だけ生じるようになります。この思いである”私(=我)”は比較し、二元に分けて執着・忌避・その他自身が満足するように働きかけます。この”私(=我)”は単なる「思い」であって何の責任もとらないし、大した影響力もないただの呟き程度なのですが・・・・。心の声として認識してしまうと従ってしまうようになります。この厄介な”私(=我)”によって人生が振り回され、”苦”を感じる元凶かもしれません。


  起こっていることは宇宙・自然の現象であり事実でしかありません。起こったことが、人間の”我”によって意図的に行われていると認識すると放っておくことができなくなることがあります。


 「いまここ」に善も悪もなく、ただ「いまここ」という現実・事実があるだけです。”私(=我)”は未来に備えるために”知りたい病・知らせたい病・なんとかしたい病”にかかっていることに気づきません。


 いろは歌にある「有為の奥山」の住人として”私(=我)”が関わっている限り「有為の奥山」から脱出することができないかもしれません。


 探すものと探されるものが別々では何時までも探し回らなければなりません。探すもの”私(=我)”がいなくならなくてはなりません。探される何かがあったら大変なことです。探すものもいないし探されるものないかもしれません。


 


 


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>