「箇の不思量底を思量せよ。不思量底如何が思量せん。非思量。此れ乃ち坐禅の要術なり。」(普勧坐禅儀)


 


 過ぎ去ったことは、いつまでも、くよくよしないがよろしい。まだ来ぬことは取り越し苦労をしないがよい。それよりも、冷静に、そして力いっぱいに、現在するところのことを、よくよく観察して、なんの“揺らぐことなく、動ずることなく”して、ただ“今日まさに作すべきことを力いっぱいに”実行するがよろしい。それが人間のもっとも賢明な生き方である。


「一夜賢者の偈」『中部経典』


 


 私達が自身の人生を正直に観察してみると、思いのとおりにならないことは”苦”であると実感していることと思われます。諸行は無常(変化変容して消滅する)であり、一切は必ず消滅します。老い・病気になり・死は避けることができず、誰もが真理に平等です。若くいたい・健康でいたい・死にたくないという思いが強ければ強いほど打ちひしがれることも大きくなります。


 子供の頃は若くいたいというよりは速く大人になりたかった。大人になったら大人よりも子供の方がいいと、無いものねだりです。無いものが欲しい、失ったものが欲しいとしていれば、現実の自分を受け入れないで生きていることになります。一体いつになったら今に生きることができるのでしょうか。今にしか生きていないのに、今が気に食わなければ人生を棒にふることになります。今のあるがままを生きるということは次の瞬間も次の瞬間もOKということになります。そうであれば永遠にOKということになります。


 余計なこと(過去を悔み、未来に思いを馳せる)で気を病むより、今を正直に受け入れる他ありません。他の誰かが救ってくれるでしょうか。どう生きるかではなく、どう生きているのかを直視してみる方がいいかもしれません。”我”(ああしたい・こうなりたい)に振り回されず、事実の自分に向き合う。


 


 ”あるがまま”が見えないこと(=無明)で、四顛倒(=常・楽・我・浄)のままでいれば”苦”から逃げ回ることになります。”自分かわいい”が第一の”我”は、”我”の欲することを実現するように自らを叱咤激励しつづけます。”我”は現実を変えることができるという前提で働いています。しかし、”我”はころころ変わり常住不変でもなく、”我”の思う通りにはなりません”無我”です。


 ”我”は過去を回想し、あの時◯◯であったら、◯◯しておけば・・・未来に思いを馳せて◯◯すれば、◯◯が実現すれば・・・・と現実を離れた思いの世界に彷徨っています。消え去った”過去”や実現の保証のない”未来”を思い、”デモシカ”、”タラレバ”と考えては嘆いています。眼前の事実そのままの”あるがまま”以外に真実(=現象)はありえません。


 


 ”我”は事実を瞬時に分別・解釈・説明・判断・評価・・・します。分別すると”自分かわいい(=自己保身・自己正当化・自己憐憫)”が第一であり、自己を責めるよりも他を責めてしまいます。自分が正義であるのと同じく、他は他の正義があります。お互いに自らの正義を主張し、自らの正義を貫こうとします。お互いに正義なので悪いとは思っていません。戦いは”狂気”でありながら聖戦という大義名分で正当化します。どちらが勝っても自らの”正義”が勝ったことになります。


 


不:「不使用」使おうとすれば使えるが使わない。意図がない。


未:「未使用」使っていない状態。未だ◯◯していない。時間の経過で変わる。


非:「非使用」使ってはいけない。禁止。


 


 


 ”不思量底を思量せよ”は”思量を思量すべからず”と言っているのでしょうか。”不思量底”を体験させるために持ち出した(月を指す指)言葉かもしれません。”不思量底”という言葉自体に振り回されて指し示している思量以前の何たるかを体験させようということでしょうか。”不思量”は、分別以前の無分別の状態であり思量に至っていない状態のままにある。見れば見えたまま、聞こえれば聞こえたまま、味わえば味わえたまま、思いが浮かべば浮かんだまま、気づいたら気づいたまま・・・・次へ進まずに完結している。


 ”非思量”は、”我”が働かせている分別から起こる思量を相手にしない(=思量してはいけない)ことでしょうか。坐禅中に起こっている頭の中の現象である思量は、”我”のおしゃべりであって放ったらかしにする。”思考のルーチン”に手をつけないようにする。


 


 分別は、見えたまま聞こえたままを振り返ってからでないとできません。すでに消滅し終わっている現象に対して、聞こえたという記憶をたよりに過去のこと(=存在していない)を取り扱うことができます。実在していない現象が考えることのできる対象だということです。今まさに起こっている現象を思考(=分別)が捉えることはできません。


 存在していない(完璧に消滅している)現象だからこそ考える対象となります。対象が識別された後でなければ思考の対象とはなりません。今起こっている現象を考えることはできません。つまり考えていることは現実に起こっている現象ではなく、過去や未来のことだということです。現実と乖離したもう一つの心が起こっているので二心になっており分裂しています。


例:交差点で停車中に後ろからクラクションが鳴らされた(クラクションの音が聞こえたという事実だけ)。”気に入らない”と思った時にはクラクションの音は消えています。”自分かわいい(=保身)”によって次から次へ思考が起こって巻き込まれてしまいます。間違ってクラクションを鳴らしたかも知れません。聞こえた事実があっただけのことで済ませればおしまいです。


 


 ”不思量”はただ見えているただ聞こえている、思量以前であり善も悪もない”あるがまま”の混乱・葛藤のない救われている状態。誰もが経験していることに気づいてほしいということでしょうか。思い通りにしたいという”我”の働きであり”なんとかしよう”という葛藤・混乱。”非思量”は”我”の働きを放っておく(=手をつけない)ことで”我”のおしゃべりが小さくなっていきます。


 


参考(要クリック)


道元さまのお言葉


不思量を思量する


不思量底を思量する


非思量とはなにか


 


 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>