かようにわたしは聞いた。


ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。


その時、世尊は、比丘たちに説いて仰せられた。


比丘たちよ、わたしどもが何事かを思い、あるいは企て、あるいは案ずる。それが識によって存する条件である。その条件があるがゆえに、識が存するのであり、その識が存続し、増長するとき、未来にふたたび新しい有(存在)を生ずるにいたり、未来にふたたび新しい有を生ずるとき、また未来に老死・愁・悲・苦・憂・悩が生ずるのである。かくのごときがすべての苦の集積の生ずる所以である。


 比丘たちよ、もしわたしどもが、何事をも思わず、あるいは企てなかったとしても、なお何事かを案じるときは、それが識の存する条件となる。その条件があるがゆえに、識が存するのである、その識が存続し、増長するとき、未来にふたたび新しい有を生ずるにいたり、未来にふたたび新しい有を生ずるとき、また未来に老死・愁・悲・苦・憂・悩が生ずるのである。かくのごときが、このすべての苦の集積の生ずる所以である。


 だが、比丘たちよ、もしわたしどもが、何事をも思わず、何事をも企てず、また何事をも案じることがなかったならばそれは識の存する条件とはならない。その条件がないので、識は存続することがないのであり、その識が存続し、増長することがないのであるから、未来にふたたび新しい有を生ずることがない。未来にふたたび新しい有を生ずることがないのであるから、また未来に生も、老死も、愁・悲・苦・憂・悩も生ずることがないのである。かくのごときが、このすべての苦の集積の滅する所以である」


南伝 相応部経部12-38 阿含経典一巻 P161 増谷文雄著 筑摩書房


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 私達は、ある地点(=過去・スタート)から歩いたり走ることで、ある地点(=未来・ゴール)に到着(=到達)するというのが一般的な思考です。ある地点(=今ここ)から歩いたり走ったとしても、どの地点でも必ず「今ここ」でなかったことはありません。例えば「今」フランスにいると表現しますが、フランスが「今ここ」を提供しているのでしょうか。それとも、「今ここ」を誰かに伝えたり自身の位置を確認するためにフランスにいるというのでしょうか。


 どこへ行こうがどこにいようが、いつでも「今ここ」でしかありません。「今ここ」から離れることはできません。過去にも未来にも行くことはできません。「今ここ」が前後裁断されて続いています。我々は過去にも未来にも生きておらず「今ここ」にだけ生きています。消滅した過去を悔やんだり、定かでない未来に不安を抱くことはただ妄想しているだけかもしれません。


 


<比丘たちよ、わたしどもが何事かを思い、あるいは企て、あるいは案ずる。>


 「何事かを思い」:思いは勝手にわき起こってきます。記憶しないかぎり綺麗サッパリ消え去ります。感受された一の箭は誰でも受けますが、二の箭として関わると大変なことになります。思考は使いたいときに使えばいいのですが、どうでもいい思考(=過去を悔やんだり・未来の不安)を追いかけてばかりいると苦悩をもたらします。頭の中の”妄想”を追いかけて自縄自縛となってはいないでしょうか。


 私達は、無我無心で思い無我無心のまま思いが消え去ってしまいます。思いを追いかけることで自分(=私)が思っているように感じます。「思い」を対象(=客体)とし追いかける自分(=私・主体)がいるはずだという思い込(=観念)があります。


 


あるいは企て、あるいは案ずる」:思いを追いかけて”何とかしよう”と「思考のループ」に巻き込まれてしまいます。心身は勝手に変化変容していて思いの通りにはなりません。心身は”私=我”ではありません。心身は変化変容している働きなのに”私=我”がコントロールしているかのように思い込んでしまったかもしれません。


 身体が誰か(=我)の思い通りになることはありません。老い・病気・死は自然なもので、誰か(=我)の思い通りになることはないと誰もが了解しているはずなのですが・・・・。誰か(=我)は”何とかしよう”と企て、案じてしまっています。当たり前のことですが、変化変容していることを止めることはできません。


 


識(=心・意)によって存する条件」:二の箭(=思いを追いかける)によって”何とかしよう”という識(=心・意)がループし続けます。ただ頭に浮かんでいるだけのことで実在していない思いという妄想です。この妄想をつかって”我”の欲求を満たそう(=渇愛)とすると、混乱・葛藤・憂い・悩みという苦しみをどんどん集めるようになります。


 


「また何事をも案じることがなかったならば」:自然にわき起こる思いを追いかけずに思ったままにさせておく。手をつけて”何とかしよう=案じる”としなけば、識(=心・意)の存する条件にならない。苦が滅する(=”何とかしようという”声を出している”我”がおとなしくなっていく)ということのようです。只坐っているときに、出てくる思いは現実(=ただ坐っている)ではなく妄想ということになります。なんらかの思い(=妄想)を追いかけることなく、思いをスルーすれば消えていくということを実体験していくことになります。思いに良いも悪いもありません。自分が自分で思いを湧き起こさせているわけではありません。


 


 苦:幸せを求めている(=現状が満たされておらず何とかしたい)ということが「苦(=思い通りにならない)」を思いによって解決できないという証拠かもしれません。


 そもそも無いもの(=私・我)をある(=私・我)として迷っているかもしれません。感受される一切は制御できないので無我であり無常です。感受された(=無分別に感受)結果に対して分別を起こし、思いのとおりにならないので苦となります。自分がどこかにいて自分(=ただの観念であるとしている)が主体として見ていると誤解していますが、事実は勝手に見えています。


 聞きたくなくても勝手に聞こえる。見たくなくても勝手に見える。老いたくなくても勝手に老いる。病気になりたくなくても自然に病気になる。死にたくなくても勝手に死んでいく。一切が思いの通りにならない。五感の働きと一体になって変化変容しているのが実相。自分(=考えそのもの・自分を気にしているので自分が出現する)


 


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>