私達の人生の時を微分した瞬間に違いがあるのでしょうか。刹那の瞬間に、それぞれの生命体が感受するのはただ見え・ただ聞こえ・ただ感じ・ただ味わいがあるだけです。意味や価値の軽重はないのですが、振り返って軽重として見ています。極端に言えば意味づけ価値づけをしなければ刹那の瞬間は全てに平等です。


 この”刹那の今”に覚者や凡夫という違いがあるでしょうか。どこから何らかの”差”が出来てくるのでしょうか。だれもが”自分かわいい”が自然と起こってきます。この”自分かわいい”は各個人の経験・固定観念・宗教・信仰・価値観・・・等々が記憶されているフィルターを通ることで分別が起こるからかもしれません。


 分別は二元対立として認識され、執着・忌避という生命体自体を守るために働く自然な機能です。今感受された情報が”自身”にとって良いのか悪いのかを瞬時に判別され次の行動に起点となります。


 誰もが自分が正しく自分がかわいいというベースがあります。自意識が芽生え言葉を覚えると、言葉を使って考えるということを常に繰り返してきました。自意識(=我)は考えて”何とかしたい”考えれば”何とかできる”という思い込みから脱することができません。目にするモノ聞こえる音感覚に何らかの意味や価値があるものだとして生きてきました。自らの人生にも意味づけ価値づけを行っています。


 もし微分された瞬間(=刹那の今の瞬間)が間違いであったとしてもどうすることもできません。刹那の今が間違いということは宇宙が間違っているということになりますが、宇宙は間違っているのでしょうか。


 この刹那は誰にも平等です。刹那の今は、完璧に過ぎ去り消え去っています。次の瞬間を思いのとおりに作り出すこともできないし、消え去った過去を再現することもできません。自意識(=我)はどうにもならないことをどうかしようと葛藤しているのでしょうか。


 一体直前の瞬間はどこへ行き次の瞬間はどこからくるのでしょうか。宇宙全体がフラッシュのように生滅を繰り返しているようです。”思いの通りにしよう”という”思い”を無視して眼の前の刹那がどのように繰り広げられているか目撃し続けるのもいいかもしれません。


 


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>