ある日、修行に悩む弟子から、「仏とは何か」と問われた雲門和尚は答えました。「乾屎橛


 


 人間は具体的な目標や目指すべき対象となるイメージがはっきりしていればその目標なりイメージに近づくことができると考えます。人間は現実に接しているよりも頭の中でイメージして生きている方が長くなっているかもしれません。イメージが主となっていて頭の中のイメージを実現しようと努力します。


 現実よりもイメージの中に真実があるとしているからかもしれません。言葉や文字は現実のものではないのですが、言葉や文字で思考する習性が身についてしまっています。言葉や文字が現実よりも重要視されていないでしょうか。言葉や文字が現実を変えると信じるようになっています。


 現実の「山」や「川」を見なくても「山」や「川」の絵を描くことができます。イメージで料理を作ったり物を作ったりしているのでイメージがあらゆるものを作れるとしています。現実は常に変化して生滅しているのに言葉や文字はちっとも変わりません。変化することと変化しないこととどちらが正常なのでしょうか。変化しているものにあえて変化しない言葉や文字で表現しているということに気づかなければなりません。言葉や文字は便宜上のものであって単なる表象でしかないということではないでしょうか。


 本質は諸行無常の世界であり留まることなく消滅しています。10秒前の世界は完璧に消え去っています


 


 明けても暮れても坐禅・読経・食事・掃除するだけの修行で調身・調息・調心(身体,呼吸,心を調える)となる。日常=修行=寂静と見抜いていかなければならない。日常以外に何かを求めるということが異常であると気づかなければなりません。日常以外が「それ」であれば、「それ」であることは特別でありめったにありえないことなので「私=自我・アイデンティティ」が最も喜ぶものです。


 「私=自我・アイデンティティ」が目指すものはマヤカシであり現実離れしたただの妄想だということではないでしょうか。


 


 弟子は修行で何かに成れたり何かを掴みたかったのでしょうか。和尚はどんな「仏」をイメージしているのだろうか。私(=弟子)は目指すべき「仏」のイメージを知りたいのかもしれません。


 具体的なイメージがあれば手っ取り早くそのイメージに近づいていけば現実となるという考え方です。


 


 所詮、「仏 Hotoke」は単に文字(=形)であり発音(=音)でしかありません。最初から「仏 Hotoke」という文字や音が存在していたわけではなく、誰かが概念を作り言葉や文字をあてがって同意した人々が使っているでけです。名のない天地だけだったのに、「名」によって万物を作ってしまいました。言葉や文字には反対概念があると非常に理解しやすいので往々にして打ち消すような言葉があるようです。


 


 弟子は「仏」は人間を超えたスーパーマンのようなとてつもないことを成し遂げた存在とイメージを膨らませていたかも知れません。


 弟子の抱いていた「仏」の概念を見事に打ち砕きました。弟子にとって目標となる和尚が実現している「仏」を教えて欲しい。


 後づけの概念でしかない「仏」を教えてもらっても言葉を貼り合わせただけのただの知識でしかありません。言葉を記憶して何になるのでしょうか。


 知識が寂静や幸福感へ結びつくという保証はどこにもありません。知識が静寂や幸福をもたらすのなら何も苦労する人などいません。


 仏教大学に行かなくても修行しなくても小学生の記憶力があれば「仏」は何かなど記憶できます。2千数百年前の人である仏陀・老子・荘子・孔子・・・の知識量は現代人の科学知識やインターネットからもたらされる知識量に比べたら微々たるもので足下にも及ばないことは誰でも分かっていることです。


 物知り遊びや概念遊びではないということのようです。


 


 修行者が何らかの心境を得たとかというわけではなく、私達から身体や感覚や思考や感情を取り去って残るものは何か。全て取り去っても働いているのは何かということのようです。「それ」が誰もが持ち合わせている不生不滅の「それ」。身体的な死とは無関係な「それ」が常に働いていて見ている。見ている者(=私=自我・アイデンティティ)は「それ」を通して見ているだけです。見ている者は「それ」に見られている。


 お釈迦様とヒトラーも人間機能としては五感があり内臓があって脳があった筈です。両者を解剖しても人間機能にさしたる違いは見いだせないのではないでしょうか。支配欲のままに立ち回ったのか、思いに振り回されずに沈黙していたかの違いだけかもしれません。思いが自分のものでイメージを実行しなければならないとして行動に出た人。思いが自分のものではないと見抜いて菩提樹のもとで何もしなかった人(=妄想につき合わない)


 


※四六時中の頭の中の「おしゃべり」は、本当は異常なのに異常と思えないところが異常かも知れません。身体中の至るところが何らかの感覚を持っていたら異常だと思うのですが・・・。異常な思いに付き合ってたら大変だと気づいてもいいかもしれません。※


 


 自分かわいいが高じると、自分を守らなくてはなりません。自然と敵がいなくては愛することができません。愛国心は敵がいて敵対心がなければなりません。善を為している証拠を得たい人は、自粛していない人を見つけて制裁を加えることで自己正当化できないし自分を自分で評価できません。自粛は当たり前であり誰も褒めてくれる人がいないので、自分で自分を褒めるしかありません。


 美と醜はペアであり、どちらが明でどちらが暗であると定義しているだけです。夜行生物にとっては夜が活動の場であり明るいときは行動を控えています。ある国にとっては善であっても敵対する国にとっては悪となっているだけのようです。二元対立の世界で行ったり来たりしているかぎり一元の世界の見方は難しいようです。


 


道:絶対無、名称はない。すべてのものが成立する根拠。万物をおおい尽くす。玄の玄


名:存在の存在たる所以 君主が名をつける権利がある 玄


無:名によって相対の有無となって、無という概念と名


有:名づけによって存在が認識されて万物となる。


有と無は同根であり、ただ名が異なるのみである。


道の字は辶(しんにょう)が終わりを、始まりを示すそうです。(参照:ウィキペディア)


妙:事象の本質。無の働きによって天地が始まる


徼:始末の物の末端。物事の帰着点。


玄:暗黒。人の目には見えない、神秘なもの。深遠な神秘。奥が深い道理。


 


 


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>