第一章


道可道、非常(恒)道(也)。名可名、非常(恒)名(也)。無名天地之始、有名萬物之母。故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼。此兩者同出而異名。同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。


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 孔子が五常(仁、義、礼、智、信)の徳性を説いたということは、当時の君主に人を思いやるということがまったくなかったからという裏返しになるのではないでしょうか。戦国時代で生き抜くためには、人民の人心掌握など待っていられなかったかもしれません。横暴な君主でなければ生き抜くことが困難であったのかもしれません。強権をふるって圧政をせざるをえなかったかもしれません。心どうのという余裕はなかったのではないでしょうか。孔子であろうが老子であろうが戦国時代の乱れた社会や暴君に辟易していたということかもしれません。


 老子は官僚であったようです。官僚の頃には言いたいことも言えずに君主に従わなければなりません。他国との無理難題に頭を悩ませたり紙一枚の勅令によって庶民の生活がどん底に落とされるということが日常茶飯事だったかもしれません。官職を引退して今まで君主に直接言えなかった事をぶちまけたかもしれません。後の人類のために書き残したなどと大袈裟なことだったのでしょうか。人間は対象がミステリアスであればあるほど聖人や偉人にしたがる傾向があります。ちょっと気の利いた事を言えるおじさんでいいと思うのですが・・・。


 今生きて活動しているのは我々だけで、我々の問題が解決されれば過去の人のイメージなどに振り回される必要はないと達観してもいいかもしれません。


 


 第一章で、この世界は絶対無から生じている。老子は「道Tao=絶対無」は知り得ないものであるということを知っていた。起源を求めれば必ず「無」に行きつく。私達が母体の中で受精する以前の私達を探すことはできません。どこにも何も痕跡などありません。魂などという概念を持ち出すので混乱させられます。頭の中で考えたことで今ある意識は魂などという曖昧な概念に影響されるかどうかは考えてもどうなることでもないので、考える意味があるかどうかはおわかりのことと思われます。受精卵のどこに肉体が入っているのでしょうか?細胞分裂によって様々な臓器が勝手に作られていて誰かが意図的に作ったなどと信じることなどできるでしょうか。


 心の特性である知りたいというのは分かります。あらゆることを追求することは本能的なことであって間違ってはいませんが、知り得ないことがたくさんることも事実です。老子は我々の知力にも限界があり、知り得ないことまで知ろうとすることは愚かなことであると言いたかったのでしょうか。


 知り得ないことを知らずに何でもできると勘違いしている君主に釘を刺したかったかもしれません。


 無から有(=存在)が生まれ、存在(=天地)は存在(=天地)そのもの(無名)でしかなかったのですが。存在に一々名をつけることによって万物となってしまった。存在が分離・分割されてしまった。無名という本質ではを観て、名という本質ではを観ることになる。


 


道:絶対無、名称はない。すべてのものが成立する根拠。万物をおおい尽くす。玄の玄


名:存在の存在たる所以 君主が名をつける権利がある 玄


無:名によって相対の有無となって、無という概念と名


有:名づけによって存在が認識されて万物となる。


有と無は同根であり、ただ名が異なるのみである。


道の字は辶(しんにょう)が終わりを、始まりを示すそうです。(参照:ウィキペディア)


妙:事象の本質。無の働きによって天地が始まる


徼:始末の物の末端。物事の帰着点。


玄:暗黒。人の目には見えない、神秘なもの。深遠な神秘。奥が深い道理。


 


 


 


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>