誰もが”自分かわいい”が前提にあって私(=我)がどうすべきかを思案します。より望まれるイメージと今の自分を比較することからスタートします。イメージが真の姿であってそのイメージへ近づけようとして苦悩することになります。既に現実・事実を生きているにもかかわらず、イメージの方が正しく現実・事実があたかも間違っているかのように分別が働いてしまいます。自己憐憫・自己正当化のスパイラルによって現実・事実を受け入れられないのが原因です。”夢は叶う”と言われますが、実現したイメージが夢であり破壊することを夢として抱いている人もいます。


 赤ちゃんは自分を見ている自分を作り出すこともできないし、イメージされた自分を作ることもできません。現実・事実のままに生きています。比較対象となるイメージがないので、分裂せずに生きています。赤ちゃんには見ている自分もいないし、聞いている自分もいません。見えているだけ聞こえているだけであり、自分(=我)が形成されていないので自分が認知しているということもありません。


 自分(=自分を見ている・自分を分かっている=自我)が自分(=見られている自分)とイメージで作られたあるべき姿の自分(=未来の自分)と比較していないでしょうか。あるべき姿の自分が主であれば、今の自分は何もできていない自分として駄目な自分と見ることになります。


 では、赤子のようにイメージを思考で作ることができないなら、あるべき姿の自分はいないことになります。今のあるがままだけがあって、イメージに振り回されない事実のままの自分として生きています。


 


 独りでいる時には、アイデンティティは何の役にもたちません。比較する必要がないので、何でもない素のままでいることができます。男でもなく女でもなく人間でもなく・・・学者でもなく政治家でもなく主婦でもなく父でもなく・・・。思考以前にある”私は在る”という感覚だけにいてみる。


 働いている感覚のままにただ”在る”に留まって、何かが見えているし何かが聞こえているだけにとどまる。見ている”誰か”が不在であり、主体となる私(=我)がいなければ見えているモノは対象となりません。


 


「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候、
これはこれ災難をのがるる妙法にて候 」(良寛)


あるがままが事実であり、思い描いている姿(=イメージの自分)は現実・事実の姿ではなく妄想です。災難に逢っていいる時は災難に逢っている自分が本当の姿です。災難に逢っていな前の自分はイメージであって現実の自分ではありません。あるがままをあるがままに正直に受け入れる。災難に逢っている自分として行動する他ありません。災難に逢っているという現実は嘘でほしいと嘆いても以前のように元に戻ることはありません。現実が嫌であっても、思考によって以前のように戻すことはできません。現実を受け入れなければ前に進むことはできません。「覆水盆に返らず」


 死が迫ったら覚悟を決めて身を委ねる他ありません。身体が眠りたいのに思いによって眠りを拒み続ければ不眠症になるかもしれません。何が起こるかなど誰にも分かりません。思っていること(=イメージ)が主ではなく、事実・現実が主です。起こっていることが事実・現実です。事実・現実が間違っているのなら宇宙自体が間違ということになります。宇宙に属している自身も間違いの存在であることを認めていることになります。


 起こっていることを事実として受け入れることができなければ、宇宙で起こっていることが偽りだとして否定していることになります。現実・事実を解釈しているのは私(=我)であって、現実・事実と解釈の差には個々人の主観があります。現実が思い通りにならないということは一切皆苦であり、思いではどうにもならないというのが現実です。


 


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>