意思:気持ち 意志:意欲


 頭の中のお喋りと意識は同じでしょうか。例えば、朝になって”起きよう”と頭で考えたとしても身体が直ぐに従うわけではありません。単に思ったこと(=意思)から行動へと移すように思った(=意志)ことには違いがあります。単なる思いによるお喋りでは身体は言う通りにはなりません。強い意志を持って身体に指示を与えても思うようには動きません。脳内ネットワークと身体の各部位が細かく制御できてはいません。子供の頃は自分の身体であって自分の身体ではありません。制御されていない身体はぎこちなくようやく歩みを進めることができる程度です。身体は意志をそのまま表現することはできないということです。


 熱が出ても意志で下げることはできないし、身体の細胞を意志でどうすることもできません。身体の部位を何度も何度も使うことで覚え込ませるしか方法はありません。アスリートは無意識に反応できるように徹底的に繰り返し練習するほかありません。


 ”手を挙げる”という行為であってもスピードと方向をある程度制御できますが、ロボットのように距離の制御は難しいことです。目をつむって両手の人差し指の先端を正確につけることも容易ではありません。


 身体は意識された”私(=我)”の思いの通りに動かしているというようり、無意識に勝手に動いているほうがほとんどかもしれません。何気ない仕草を思いを使っていちいち身体に指示するのなら脳はパンクしてしまいます。意思や意志とは無関係に、勝手に動いているのではないでしょうか。排泄を促されて身体が従います。自らの意志で好きな時間に排泄するわけではありません。


 アスリートにとっては少しでも自分の思い通りに身体を動かせるようにできればいいと願っているに違いありません。”私(=我)”は自身がなんとか制御できる身体だけではなく、あらゆる願望を成就させたいと願っているかもしれません。自身の身体でさえ言うことを利かないのに、自身のモノでもなんでもないことがどうして思い通りに成るでしょうか。(一切皆苦)


 世界が個々の意識に従うのでしょうか、個々の意識が世界に従っているのでしょうか。宇宙の現象として身体を通して個々の働きが体現されているのではないでしょうか。意識的にできるということは微々たることであって、殆どは無意識に起こっている。思考の言っていることをスルーして、いっそのこと無意識に委ねてみるのもいいかもしれません。


 茶道の経験はないのですが、茶道での所作を意識的に行い尽くすと無意識(もとのその一)にできるようになるのでしょうか。”私(=我)”が働くことのない無意識に任せた所作では”無我無心”で行われ美しい所作が体現される。


稽古とは一より習い十を知り 十よりかえるもとのその一」(利休)ピアノ演奏の初歩から達人に成るまでの過程は、叩く・打つ・弾く・奏でる・奏者なく(=私が奏でているのではなく私不在の無意識でピアノと一体)。


人馬一体。不二一体。主客一体。


 料理を極めれば知らぬ間に料理が出来上がったとか、掃除を極めれば知らぬ間に部屋が綺麗になっていたとか、畑仕事を極めれば知らぬ間に種を植えていたとか・・・。”私(=我)”の働きが排除された無我無心の動作を経験しているのではないでしょうか。


 


 


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>