「自分」と呼ばれる何かがどこかにいる。この思い込み(=観念)が前提にあり、「自分」が世界を認識していると考えられています。この「自分」という観念は、感受された対象を説明するために必要とされた仮のモノでしかありません。実体がなく思考で作り出され続けられるのでどこかに「自分」がいると思い込んでいます。


 自分が見ている聞いている味わっている感じている思っている分別している表現している笑っている泣いている嘆いている・・・。「自縄自縛」という言葉がありますが、自分というのは実体がないゆえに、アイデンティティ(=存在証明)・社会的評価・所属集団・国籍・出身地・人種・ファッション・性別・年齢層・ポリシー・固定観念・所有物・・・等と簡単に結びついてしまいます。他人と比べて自分が際立って異なる部分や優劣が自分であるとみなすこともあります。


 「私は誰か?」と自問自答するには、他と比べることによって違いを見出すことが最も手っ取り早いことです。私は若い背が高い資産がある有名である◯◯に優れている・・・。比べる誰か存在しない無人島で唯一の人間であれば、誰ででもない何者でもない存在そのものということになります。


 無人島で私は◯◯であると主張する必要はありません。アイデンティティもポリシーも役にはたちません。社会生活ではアイデンティティが拠り所となるかも知れませんが、一人ぼっちでは体力やサバイバル技術によって生存が左右されます。


 無人島で一人で生きるのに清濁・善悪・貴賤・・よりも日々の生活を成り立たせなくてはなりません。動物の生活は時間単位での生活、生命体の寿命が短くなれば分単位で生きています。自らの遺伝子を次代へ受け継がなければなりません。「私」という架空の何かを創り出す時間もないし、「私は誰か?」と問うこともなく消え去ってしまいます。


 思考によって救われるのか、思考に振り回されて苦悩しているのか確認してみるのもいいかもしれません。無人島で過ごす必要はありませんが、一人の時間を過ごすことはできます。考えには匂いも味も色もありません。考えを徹底的に放ったらかしてみるのもいいかもしれません。頭の中で考えを追いかけ回しているおしゃべり(=自我)はどうなるのでしょうか。


 


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>