執大象、天下往。往而不害、安平太。樂與餌、過客止。道之出言、淡乎其無味。視之不足見。聽之不足聞。用之不足既。



道に従い行動すれば、天下へ人々が集う。その天下に集まれば害はなく(=治安がいい)、安泰である。楽しみと食べ物があれば、人が訪れ立ち止まる。「道Tao」のことを言葉にすれば、味気のない淡白なものとなる。目で見ようとしても見えず、聞こうとしても聞こえない。しかしこの「道Tao」は使い尽くせないものである。


 


象:現れたもの、法、道、道理。
淡:あっさりしている。


 


<他の翻訳例>


 大いなる象(かたち)をしっかり握るものには、天下(の人びと)がそこへ向かって集まるだろう。そこへ行っても何の害にもあわない。(すべてが)平和で静かに、また安泰である。音楽(の響き)と(うまい)食物(のにおい)は、通りすがりの他国のものを立ちどまらせる。「道」が人のことばに出されるとき、いかにも淡白で味がない。それは、見つめてよく見るほどのものではないが、耳をすませいて聞くほどのものでもない。だがそれは、用いてもいつまでも使い尽くせないほどである。


「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者


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 今も昔も統治下に住んでいる人民は税に悩まされいたのでしょうか。天下の土地は国王が統治している土地であり、その土地からの収益も国王のものであるということなのでしょうか。人民の生命や土地を守るために軍隊が必要であり、軍隊を維持するにはそれなりのお金が必要となります。その軍隊を維持するために応分の費用を負担してもらわなければなりません。


 租税を物納するよりは「交換価値」があり偽造できない軽くて持ち運びやすい貨幣を流通させるようになったようです。誰かのお墨付き(=信用)がなければただの金属でありただの紙でしかありません。現代ではネット上で受け渡しできるただの数字であり、口座にある貯金が増減されるようになっています。現物の貨幣を見ることなく物品の受け渡しができています。


 「サピエンス全史」に書かれている認知革命で「あるがまま」の事実の世界に「虚構(=フィクション)」という虚構の世界を想像し共有させることで、ホモ・サピエンスが生き残り現在に至っているようです。人間以外の生命体から見れば言語(=音・形)・貨幣・政治経済・・・人間は虚構の中で生きている動物ということでしょうか。


 虚構の中にいるので頭の中での思いが真実だと誤解しているかもしれません。現実に”起っている”ことが真実なのに、現実を否定する”でも・だって”という思考が苦悩を生み出し続ける源泉かもしれません。”でも・だって”は無意識のうちに現実を現実として受け入れることを拒むために発せられる”言葉”かもしれません。

 


 人は知ることや体験によって何かを掴んだり何かを得たり何者かに変わることを期待している部分があるようです。様々な物質を様々な条件で混ぜ合わせても錬金できないように、人間に知識や体験を混ぜ合わせることで別物の何者かになることはできません。世間体のいい頭でっかちの人格者ぶった人や博士や熟練者として大成するかもしれません。


 お釈迦様は自ら人体実験(=苦行)をしても何も変わらなかったと実証してみました。実体験の錬金術が失敗して身心が自分ではなかったと気づいたのでしょうか。明けの明星で覚る身心なんて無かったのかと分かったのでしょうか。”なんとかしよう”というというのが無くなっていたかも知れません。


 人間として生まれてきて、誰もが意味や価値のあるものを追い求めているのですが”ゴールが分かっている”のなら「それ」は一体何なんでしょうか。もし”ゴールが分かっていない”で向かっているのなら既に迷子かもしれません。”ゴールが分かっていない”から意味や価値のあることが”ゴール”であるとしているのでしょうか。すでに”ゴールにいる”のにもかかわらず”ゴール”を探し出そうとしているパラドックス。誰も騙してはいません、自身が自分ゲームをし続けているかもしれません。


 


 「道Tao」は言葉で表現し尽くせない道理と書かれているので、「道Tao」は探す必要のない眼の前の現実そのままということになります。何処にでもあるということは特定することのができないので、あるともないともいえません。「有る」といったら特定してしまうので間違いであり、「無い」と言ったら「有る」を前提としているので「有る」が特定できないのに「無い」は間違いとなります。瞬間は捕らえたと思った時にはありません。瞬間・瞬間はあるようで無いのと同じです。時間は概念であって、あるようで無い。


 生も何処に行っても何時でも瞬間・瞬間です。探す必要のないもので、今まさに感受している全てであり生として取り扱える何かの概念ではありません。


 死も概念上で取り扱っているだけで、死んだのに生きているわけがありません。死の真相を語れる人はいません。死があるとどうして分かるのでしょうか。死んで生きている人なら死を語る資格がありますが、誰一人死んでから語ることはできません。生も死もただの概念であり想像上のことでしかありません。


 


 空気はあるとか無いとか感じることなく、気にせずに生きています。普通に生活しているのなら、空気(=生)を探すこともないし真空地帯(=死)が何処かにあって自ら飛び込むこともありません。生がこれだという感覚はどこにでもあるしどの瞬間でも感じることができます。特定・特別の生などどこにもないということになります。エベレストの空気(=生)が真の空気(=生)であって、今吸っている空気(=生)が偽物なのでしょうか。子供の頃の空気(=生)が真で年老いて吸っている空気は偽物なのでしょうか。昨日の生はもうないし、明日の生がどこか鎮座していることもありません。生は探し出すのではなく瞬間・瞬間の実感そのもの


 「道Tao」とおなじで「生」はなにかなど定義したり知る対象にはなりません。感受されたままに全てがすでに受け入れられているという事実を見抜く。余計な分別が生を思い煩うものにしているかもしれません。


 


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>