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洞察 [TED]

TED 「My stroke of insight」

 脳科学者(神経解剖学者)自身の脳卒中(左脳内での脳内出血)での体験です。

自身の脳内で起ったことを分析し記憶したことを述べてくれている貴重な体験談です。

 私たちの周りで起っていることは大袈裟に言えば宇宙で初めての出来事でこれからも起こることのことのない一回限りの出来事です。経験則というものを持ち出していますが、起こることは似て非なるものです。数十億年前から試行錯誤を重ね身についている本能的な部分は間違うことはありません。危険を察知する完璧な感覚(臭覚・味覚・身体感覚・聴覚・視覚)が備わっています。

 膨大な時間をかけて造り上げられたシステムを大脳皮質で制御できるでしょうか。生き残るためにあるシステムを制御しようとするのなら自らを危険に陥れることになるのは明らかです。各生命体の感受能力の範囲内で、各生命体の都合のいいような世界があるはずです。魚の感受している世界をそのとおりに感受しても地上で生活できる保障はありません。鳥の感受している世界をそのとおりに感受しても地上で生活できる保障はありません。ネズミ・ミミズ・・・他の生命体が感受していることなどどうでもいいのですが・・・。人間の◯◯倍の能力があるから凄いとか素晴らしいとか知りたいというのが人間の特質でしょうか。

 感受したことを制御しようとしたら大変なことです。人間という生命体が築いてきたことが台無しになります。脳が脳を制御できるのでしょうか。生きていくために世界を都合の良い世界として見ているし聞こえている味わうために脳がある。ただ働きとして作られてきたのですが、言語という発明によって勘違いしているかもしれません。

 目を向けると光景が見えるように、自動的なそれまで見えたいたものは綺麗サッパリと消え去り今見えている光景だけが見えています。熟睡時以外は何かを感受して反応しています。微妙な思いが沸き起こっていて、それを自動的に言葉に変換してつぶやいています。そう思ったのですから仕方がないのですが、何故か”意”というものは”意”を何とかできる(=制御)とすることで問題としています。

 生命体として身体というものを動かせないといけないので身体としての空間認識を脳が作り出しているかもしれません。どうしても他者を見るように自己を見る癖が抜けきらないので自意識というものに振り回されて行くことになります。

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<03:36

右脳にとっては“現在”がすべてです“。この場所この瞬間”がすべてです。右脳は映像で考え、自分の体の動きから運動感覚で学びます。情報はエネルギーの形をとってすべての感覚システムから同時に一気に流れ込み、この現在の瞬間がどのように見えどのように臭いどういう味がしどんな感触がしどう聞こえるかが巨大なコラージュになって現れるのです。右脳の意識を通して見ると、私という存在は自分を取り巻くすべてのエネルギーとつながった存在なのです。>

 

 記憶が有りもしない幻影の過去のイメージを思い出し将来に憂いをいだきます。今ここという”瞬間・瞬間”があり、”過去・未来”という”時間”というただの概念であって存在などしていません。未来を経験することはなく常に”今”だけです。過去の遺物はありますが、未来が存在するのなら未物というものに出くわしてもいいのですがどこにもありません。それは既に生存しているものや存在しているものを”発見”するだけのことです。

 

<04:47

私たちの左脳はまったく異なった存在です。私たちの左脳は直線的系統的に考えます左脳にとっては過去と未来がすべてです。左脳は現在の瞬間を表す巨大なコラージュから詳細を拾い出し、その詳細の中からさらに詳細についての詳細を拾い出すようにできています。そしてそれらを分類し全ての情報を整理しこれまで覚えてきた過去の全てと結びつけて将来の全ての可能性へと投影します。そして左脳は言語で考えます継続的な脳のしゃべり声が内面の世界と外の世界とをつないでいます。その小さな声が私に囁きます“帰る途中で―”“バナナを買うのを忘れないで”“明日の朝いるから”>

 

 ”今という瞬間”に問題があったら大変なことです。”今という瞬間”に手出しすることは不可能だからです。過去や未来を持ち出すから問題となるので、”今という瞬間”を操作しようとした瞬間に”今という瞬間”は消え去っているので、”今という瞬間”を掴んだり得たりするような問題にはなりません。危険であれば身体が反応して勝手に危険回避しています。

 

<07:55

私はバランスを崩し壁にもたれました。そして腕を見るともはや自分の体の境界が分からなくなっていることに気付きました自分がどこから始まりどこで終わるのかその境界が分かりませんでした。>

<09:31

この空間の中では仕事に関わるストレスが全て消えました。体が軽くなったのを感じました。外界全ての関係とそれにかかわるストレスの元がすべてなくなったのです。平安で満ち足りた気分になりました。想像して下さい37年間の感情の重荷から解放されるのがどんなものか!(笑)ああ!なんという幸福幸福とても素敵でした。>

 

<15:17

しかし私は“でもまだ私は生きてる!”と思いました。“そして天国を見つけた私が天国を見つけて―”“まだ生きていられるのであれば生きている皆も―”“天国を見つけることができるんだ”と気付きました。世界が美しく平安で思いやりに満ちた愛する人々で満たされ、みんないつでもこの場所に来られると知っているのを思い描きました。意図して左脳から右脳へと歩み寄りこの平安を見出すことができるのだと。この体験がどれほど大きな賜物となるか、生きている人たちにどれほど強い洞察を与え得るか、そのことに気付きそれが回復への力になりました。>

 

 思考(=ことば)偏重の脳から離れることができ、おしゃべりをやり過ごして静かになることができれば平安だと実体験をしたのでしょうか。おしゃべりが普通であり積極的に思考に関わることが正常だと思いこんでいるのが現代人です。スポーツマンは何度も何度も練習して、身体に覚え込ませ思考を使わないようになるまで訓練するのでしょうか。左脳を使わずに右脳で知らぬ間にできる”ゾーン”になっているのでしょうか。本能の反射レベルまでになるように、脳の記憶から身体の記憶になるようにしているのでしょうか。

 

<16:32

さて私たちは一体何者なんでしょう?私たちは器用に動く手と2つの認識的な心を備えた宇宙の生命力です。そして私たちはこの世界の中でどんな人間でいたいのかどのようにありたいのか、すべての瞬間瞬間において選ぶ力があります。今ここでこの瞬間私は右脳の意識へと寄る事が出来ます。そこでは私は宇宙の生命力です。私を作り上げる50兆もの美しい分子が一体となった生命力の塊です。あるいは左脳の意識へと寄って1人の堅実な個人としてあることを選べます。大きな流れや他の人とは別個の存在です。私はジルボルトテイラー博士理知的な神経解剖学者です。この2者が私の中にある“私たち”なのです。皆さんが選ぶのはどちらでしょう?どちらをいつ選びますか?私たちがより多くの時間を右脳にある深い内的平安の回路で生きることを選択すれば、世界にはもっと平和が広がり私たちの地球ももっと平和な場所になると信じています。>

 

 左脳重視の”アイデンティティ”を押し通していくのか、個という概念は単なる概念であると見抜くのか。人生の意味や価値があったら大変なことです。ヒトラーの演説(=ただの音)を聞いて”ユダヤ人”を敵として見立て、団結してドイツ国民として自意識を増長させたことで大変なことになりました。新大陸が約束の地であると”意味や価値”を見い出せば先住民はどうなるのでしょう。我らが神から祝福された人間だと”意味や価値”を受け付けられたらどうなるでしょうか。

 熟睡している時に”意味や価値”がなくても生きていました。今この瞬間に”意味や価値”がなくても平気です。赤子や幼児には”人生の意味や価値”など問題になりません。”意味や価値”を見出すことは危険を孕んでいるのではないでしょうか。”意味や価値”が無いからこそ次の瞬間に自由と解放があります。”意味や価値”に縛られた人に自由と解放はあるでしょうか。”意味や価値”は成功をもたらすと主張しますが挫折もあります。その人になり切れるわけがないので、人と比べる前に自身が平安でいられる方を選択するのがよっぽど幸せかも知れません。

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  生命体は各感覚器官で感受できる情報に何らかの意味を感じます。対象とされたモノを捕まえるか退散するか本能的に行動しています。人間が集まって生活している場では、音や形に意味があると教え込まれ音(=言葉)に意味があり、形(=文字)にも意味があるとして生きています。なるほど伝達手段としては素晴らしいのですが、この音と形に意味や価値があると思い込んでしまって振り回されています。ただ浮かんでは消えたしまう思いでしかないのに、言葉と文字と結びつくことで意味や価値が創出されてしまいます。

 感情や感覚が先で次に言語という順番なのですが、あまりに密接であり瞬時・同時となっています。ラジオでは表情や態度は分からないのですが、音(=言葉)で感情を感じてしまうまでに一体となっています。

 言語という思考の道具が作られてから思考こそが問題を解決するとされています。思考で解決できるのなら、悩んだら思考で何でもかんでもバッサリと解決できるようなものですが・・。人類の思考能力はいつになったら完成するのやら。

 思考が悪いわけではなく、必要な時に使えばいいだけのことです。思考を追い回すという最悪なことを何時もしていることを見抜かなければなりません。どうしても存在に言葉の無かった状態(=万物斉同)に一旦は立ち戻る必要が在ります。言葉での思考で振り回されない生命体は狂気になるでしょうか?眠っていて狂うことはできません。思考を追っかけてだんだんとズレが大きくなって制御できなくなるのでしょうか。

 何もしていないのに(=例えば只管打坐)思いが出るのは自然現象ですが、思考を追っかけて”何とかしよう”とししている「その思考」を只観察して放ったらかす。”何とかしよう”という思考と観察の根比べです。只坐っているのに”何とかしよう”は間違いだと見抜いて、それこそ何もしない。自我にとって、この世で一番の苦痛は”何もしない”・”かまってもらえない”・”何とかしようをスルーされる”ことのようです。

 この文章を読んでいる時点で、社会的自己(=自我)は予防線を張っています。”何もしない”ということができるわけがないと高をくくっています。身体を痛めつけるのが修行ではありません。果たして”何とかしたい”に打ち勝ち”何もしない”でいられるか。何故そうするかも分からず、何かを掴みたい何かを得たい何者かになりたい、意味や価値があるはずだと決めつけている。教え込まれ刷り込まれ、疑うことはありません。掴んだ人はもっと掴みたい得たい人はもっと得たい何者かになりたい人は最高の人になりたい。何処まで行っても終わりのない旅を続けていていいのでしょうか・・・・。

 何も掴まない何も得ない何者にもならなくていい、何物にも何事にも意味や価値を見出さずただ感受していればいい。社会的自己(=自我=何かをしていたい=何とかしたい・解決したい)は何もしないことでおとなしくなっていきます。出る幕(=出番)を減らして相手にしないようにする。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>

 


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