善行無轍迹。善言無瑕?。善數不用籌策。善閉無關楗、而不可開。善結無繩約、而不可解。是以聖人、常善救人、故無棄人。常善救物、故無棄物。是謂襲明。故善人者、不善人之師。不善人者、善人之資。不貴其師、不愛其資、雖智大迷。是謂要妙。


 


善:正しい。すぐれた


轍:わだち、跡


迹:足跡


謫:あやまり


數:算術


籌:数を数える竹の棒
關楗:かんぬきを通す
襲明:大道を明らかにする


雖:ではあるが
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 うまく行う人は跡を残さない。雄弁には滞りはない。すばやく計算できる人は道具を使わない。閂をとおさなくてもしっかりと門を閉めることができる。しかも簡単には開けられない。縄を使わなくてもしっかりと結合することができる。しかも簡単には解けない。このように痕跡もみせず道具も使わない聖人であればこそ、人を救えるし、人は見捨てられない。物をうまく使えれば、捨てることなど無い。このことを「大道を明らかにする」という。故に善人は、不善人の師である。不善人は、善人のたすけとなる。善人を師と貴ばず、不善の者を己のたすけとして愛さないのなら、智慧があったとしても迷ったままである。これを「奥深い真理」と言う。


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 この章で使われている”善”は道理に従って熟達していることを言っているのであって、”善悪”の概念の”善”ではないようです。”善人”も「道Tao」にそった生き方をしている人を念頭にしているのでしょうか。また、万物斉同の視点と無為自然な生活を実践している人のことかもしれません。


 


<うまく行う人は跡を残さない>


 武道の達人となるとどこから手が出るかもわからないし、とらえたと思ったら逃げられています。バレーダンサーは重力がないかのように跳ぶことができます。包丁さばきの達人はどうやって包丁を動かしているのかわからないくらい見事にさばきます。狩りをしている動物も動作を気づかれないように近づきます。


 達人はいつどのように仕上げたかもわからず、痕跡を残さずにやり遂げています。中途半端(=道の途中)な人は、名を残そうとか目立つために”らしさ”を見せびらかすようです。いかにも芸術家・音楽家・舞踊家・・・の外見をしています。(能ある鷹は爪を隠す)


 新潟県で”国際ロマンス詐欺”が新聞の三面記事として掲載されました。カメルーン人の男性が米国人の軍人の写真で信じ込ませたようです。いわゆるなりすましです。かなり昔ですが、軍服やパイロットの制服で詐欺行為をしていた人もいます。私たちはSNSで姿のない人の言っていることを簡単に信じたりしているかもしれません。ここで書かれていることも安易に信じないようにお願いします。


<雄弁には滞りはない>


 山岡鉄舟が三遊亭円朝に「舌ではなく心で語らなければ噺は死ぬと説いた」ことで気づきがあり「無舌居士」の号を得たとの逸話もあります。


<すばやく計算できる人は道具を使わない>


 「名人伝(青空文庫)」で弓を使わずに射ることができ、最後には弓の使い方も弓という言葉さえ忘れてしまった人の話です。画家は筆を隠し、音楽家は弦を切ってしまったという。算盤の達人は算盤を使わなくても計算ができます。自転車を乗りこなしていくうちに、ハンドルもブレーキがない一輪車を操ることができます。その道に通じた人は道具を選ばずに道具を使いこなします。「人馬一体」


 ピアノでも習い始めから「打つ→叩く→弾く→奏でる」というふうに、道具と人間との接点がほんの僅かでも使いこなすようになります。何の力みもなく淀みもなくサラサラと流れるように・・。


 初心者の頃は道具と「私」が分離していて、何とか思い通りにしたい「私」が道具に手懐けようと一生懸命です。次第に道具の特性を理解して確認しながら道具を使うようになります。道具が自身の手足の延長のようになっていきます。次に「私」が消えて一体となれば達人の域(=ゾーン)に入るのでしょうか。


 何かをしている人もいないし、使われている道具もない。ただ音が鳴り響いていたり、ピンポン玉が勝手に弾かれていたり、文字が書かれていたり絵が描かれていたり歌声が響いていたりしています・・。


 噺す人もいないし聞く人もいない、ただ”笑い声”だけがある。動いている選手もいないし見ている人もいない、ただ”大きな歓声”だけがある。選手も「私」が動いていると思っていないし、観客も「私」が観ていると思っていない。選手はただ動き、観客はただ観えていた。ただ自然に歓声が渦巻いている。その”大歓声”があるだけで、「私」を意識すること無くノーサイドとなる。だれもが”無我無心”になりきっていたということかもしれません。


 


 思考によって”無我無心”がもたらされているのでしょうか。それともだれもが既に”無我無心”であるのに気づいていないのでしょうか。もしかしたら、思考を無闇に回すゲームに夢中になりすぎて見抜けないのかもしれません。そう、私たちはすでに「それ」なのに、直視できるわけのない自身の「顔」を見ようと頑張っているだけなのかもしれません。思索した先に何かにたどり着くのではなく、主客未分の直接経験が「それ」であり”青い鳥”は遠くのどこかにいるわけではないようです。


 不思議なままでいいのに、不思議を知ろうとします。不思議の表面上のことが分かったとしても、コントロールすることも本質を変えることもできません。花の開花の仕組みを知っても条件を整えることしかできません。不思議を不思議のままに味わいたものです。甘いものを食べて何故甘いかを知っても、口の中で苦くすることはできません。不思議なまま甘いまま味わえばいいだけではないでしょうか・・・。


<閂をとおさなくてもしっかりと門を閉めることができる>


 塀で囲まれて外から見えない住宅より人目につく住宅の方が泥棒から敬遠されるようです。老子の生きていた時代は閉めるというより開けさせない、結ぶというよりは取られないようにしていたかもしれません。目先を変えて観音開きから引き戸にするとか、結ぶのではなくはめ込み式にするとか様々な工夫ができます。閂や縄を使わなければならないというのは固定観念でしかないということかもしれません。平行動作から垂直動作へ垂直動作から回転動作へと展開していけばアイデアも尽きないかも知れません。


 


 私たちは事象を二元対立(=白黒等)で見る癖がついていますが、玉石混交でありファジーで不確かなのが現実の姿かも知れません。甘い食べ物に塩を入れたり苦味を入れると奥深い味となったり、香水の中にトイレ臭を混ぜると奥深くなりいい香りが引き立ったりするようです。オーケストラに管楽器・木管楽器・金管楽器・弦楽器・打楽器・鍵盤楽器・和楽器・・・様々な音域と音色があり混ざり合うことで迫力のある音として感じられるようです。


 芝居でも脇役が重要なスパイスとなったりします。ボクシングでも捨てパンチが重要であったりするそうです。最高のものだけでは最高を表現できず、無駄なものやとるに足らないものや反対のモノも必要かも知れません。


 


 ビジネスチャンスとは楽をしたい面倒を減らしたい困り事を少なくしたい時間を無駄にしたくない楽に移動したい重いものを持ちたくない快適でいたい、苦労したくない難儀をしたくない・・・。とにかく楽できるモノやサービスを希求しているように感じられます。そんなにも苦と感じて生きているのでしょうか。現代版の不善人は楽をしたい人で、善人はモノやサービスを提供する人のことでしょうか。そうではなく、道の人が善であり道を志さなければ不善と決めつけているのでしょうか。


 


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>