サピエンス全史」によると7万年前頃に認知革命というものが起こったそうです。


 「あるがまま」の事実の世界に「虚構(=フィクション)」という虚構の世界を想像し共有することができるようになり、ホモ・サピエンスが生き残り現在に至っているようです。


 言葉は存在や概念を”ただの音”で表している単なる表象であり、文字も言葉を”ただの形”にしたものだということをしっかりと理解しなければならないのではないでしょうか。そもそも存在や現象自体に二元対立などありません。雨や風や花や雲・・・に悪意などありません。存在は「あるがまま」にあるだけであって評価を差し挟んでいるのは我々のその時々の気分かもしれません。我々の純粋意識は単に見聞覚知しているだけであって、その「あるがまま」に二元対立(=善悪・美醜・・)が具わっているわけではありません。人間の自分勝手な分別(=脳の癖)によって二元対立として執着すべきか忌避すべきかを決めているようです。


 ある存在が命名される以前には何でもない「あるがまま」としてあるだけです。例えばディスプレイですが、目の前に見えているものは見えているだけでしかないのですが、誰かが”ディスプレイ”と命名したことによって”ディスプレイ”と認識しています。人間だけが共有しているフィクションですから、猫や犬に”ディスプレイ”と教えることに意味はないようです。


 


 私たちは言葉や文字を操って(=操られ)、ありもしない物語(=フィクション)を共有しイメージできる能力があります。この能力によってお互いにイメージを信じ込むことができ、その信じたことを現実として受け入れることができます。フィクションであるのに、フィクションがあたかも現実(=事実・常識)のように思い込み当たり前のように振る舞っています。


 今まで世界に存在しないものをフィクションでイメージして、そのイメージ通りに組み立てて現実の世界に目に見える形として出現させることができます。他の動物では巣を作る程度ですが、人間は社会での仕組みや宇宙や過去の話や未来さえも想像できるから厄介です。過去や未来が現実のように扱うこと(=扱い慣れている)で自らを悩ませ混乱しています。


 


 単なる表象でしかない言葉を勝手に組み合わせるだけですから、無限に概念を作ることができます。現代のテクノロジーでは、メディアを通じて同時に多数の人に新しい概念を送ることもできます。


 お金はただの紙でコインはただの金属ですが、ある地域内では通貨としての交換価値を持たせています。本来は、国も国境もないのですが勝手に法律を作ったり政治家という役割を担う人も出現しています。コンサルタント・アドバイザー・キャスター・・・カタカナの職業の人も続々と生まれているようです。


 


 極端に言えば、見聞覚知している「あるがまま」以外はすべてフィクションと言っても過言ではないということになりますが・・・・・。


 神話はフィクションであり旧約聖書もフィクション、霊や魂や悪魔や地獄や善悪や二元対立もすべてフィクションと見抜けるでしょうか。フィクションが悪いわけではなく、フィクションだと見抜いていればある程度覚めて見ることができるのではないでしょうか。


 現代はフィクションの中にフェイクまであるのでさらに混迷しているように思われます。


 


 


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>