老子 第十二章


 五色令人目盲、五音令人耳聾、五味令人口爽、馳騁田猟、令人心発狂、難得之貨、令人行妨。


是以聖人為腹不為目、故去彼取此。


 


 色彩はかえって現実を見えなくしてしまう。音色はかえって現実の音を聞こえなくしてしまう。味付けはかえって味覚を損ねてしまう。馬で駆け回る狩猟は、人を興奮させて狂ったように獲物を追い回す。得がたい貴重なもの(珍宝・財貨)は、人として為すべきこと(当たり前の行い)を後回しにさせてしまう。


 だから為政者は、享楽に振り回されず衣食住で満ちたりた生活で満足する。欲望の何たるかを知り五感に惑わされずに、生活を維持できるだけの必要なものだけで満たされるような心境であるべきだ。


 


令人: 人に~させる


五色:青・黄・赤・白・黒


五音:ド・レ・ミ・ソ・ラ


五味:酸・塩・甘・辛・苦


馳騁(ちてい):馬で駆けること。 または、思うとおりに行動すること。


田猟:狩りをすること。


為腹不為目:腹を満たすという慎ましさのために生き、目などの感覚的な快楽に陥らない。


故去彼取此:彼(=享楽)を捨て、此(=質素な生活)を選択する。


 


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 あらゆる生命体には、心地よさを希求(=執着)し不安・恐怖から逃れたい(=忌避)という本能があるようです。本能があったから生き延びたのか、生き延びている過程で本能が身についてきたのかどうでもいいことですが・・・。生命体として存在している限りは自然に「自分かわいい」が最優先されていることは間違いないようです。


 周囲の環境や状況から入ってくる情報は「そのまま」に五感から感受されます。五感自体にフィルターはなく純粋無垢な働きがあるだけです。どうでもいい情報を選別せず(=拒否しない)にしたままでは、心・感情が鎮まることは難しいことではないでしょうか。


 脳はイベント駆動であって、状況の変化にすぐに対応するようになっているようです。状況の変化(=未来)は自分(=脳)でコントロールできません。状況の変化が先にあって五感で自動的に感受することで何らかのトリガー(=スイッチ)が入って、次に脳が起動(=反応)して分別プログラムによって行動することになります。適切な行動(=保身)を起こすために脳は常に待機しているようです。


 


 脳(=身体の一部)や身体は見られている対象であって「本来の自己」ではありません。心身は目の前のパソコンのディスプレイと同様に見られる(=対象)であり、意志・感情によって動かされている対象ではないでしょうか。


 状況の変化(=諸行無常・天候・他人の言動等々)に従って動かされているということに気づかなければなりません。身体が本当の「私」であり制御の主体であれば、身体の要求(=飲食・睡眠・反応)を制御できてもいいし病気にかからないように免疫細胞を思い通りに作り出すことも出来て良いはずですが・・・。自らの意志では血流の制御も心臓の鼓動の制御もできません。自ら(=私)が手を出すことができない、自律的な生命の営みが繰り広げられているということ。


 


 身体は自分ではないものでありながら、自分であるかのように勘違いしているということに気づかないかぎり、何とか制御しようと努めようとします。完全に制御できない身体として存在してるのですから身体が老いたり病気になったり死という現象があるのは当たり前のことであって逃れることができないことです。自分でなんとかなるという勘違いによって「苦(=あるべき理想と現実のギャップ)」としていることに気づくしかありません。いくら悩んでも「苦」は解消できるものではないのですが。速やかにあたり前のこと(=例えば老・病・死)として気にしない。


 


 そもそも最初から何でもかんでも問題が存在して山積しているのでしょうか。問題は自身が問題にするから問題となっているという根本的なことに目を向けてもいいかもしれません。目の前に問題があって問題を解決しなければならないのが「私」に課せられたことなのでしょうか。それともどうでもいいことに首を突っ込んで些細なことを針小棒大に扱って困り果てているだけなのでしょうか。


 私たちは何事もなく平穏で過ごしたいという一面もあるのですが、「私=自我・アイデンティティ」は「何かがあるはずだ」という思いで血眼になって空っぽを満たそうとしています。「本来の自己」が空っぽだということに気づいているかもしれません。五感で感受しているものが純粋無垢であって、感受したあらゆるものが消え去っていることを知っています、掴めるものも得ることもないし、何者にもなれないことを実感しています。いついかなる時でも何も得ていないし何も掴んでいない自分がいます。感覚は儚く消えてしまっています。


 どんなに素晴らしい体験であったとしても、記憶の片隅に僅かに残っている残像だけしかありません。誰もが以前に味わった素晴らしい体験をもう一度味わいたいと願います。興奮したい刺激が欲しいと心が求めて身体を駆り立てるというのが我々の行動パターンのようです。何故なら全てが消え去っていて空っぽであるからです。「私=自我・アイデンティティ」の提案するゲームにつきあっているだけという見抜き。たまには相手をしてやってもいいですが、ほどほどにしたほうがいいかもしれません。


 


 空っぽの感覚を満たしたい。素晴らしい景色や絵画を観たり旅したい。リズミカルな音楽や癒やされるメロディーに包まれていたい。食べたことのない味を味わって満足したい。誰もが求めることであり否定することはできません。老子は、過度に振り回され続けては本末転倒となることを警鐘を鳴らしているかもしれません。


 単調な日々には幸せはなく、どこかに青い鳥がいてその青い鳥を捕まえようとしている限りは青い鳥と生活することは難しいかも知れません。青い鳥は「今ここ」に在り続けています。非日常は稀であり、圧倒的に平凡な日常(=有閑階級の日常と一般人の日常は異なります)の中で生きていてニュートラルな現実のほうがノーマルです。見えているものや聴こえているものや食しているものが違ったとしても、意識自体に差があるわけではありません。


 他人と比較しても意味はありません。日常の「あるがまま」から逃避して非日常の酒池肉林ばかりを求めていては感覚の楽しみの奴隷になり、日常を否定することになります。普段の日常がベースにあって、楽しむことには何の問題もありません。誰かを巻き込んだり周囲に迷惑をかけることなく、ほどほどを心得てということでしょうか。


 


 富を制御することができずに、富に振り回され快楽を追い求めるだけになって人間の感覚機能が低下し、見境のない行動へ駆り立てられる恐れがあります。


 欲望のままに薬物に手を染めてしまえば、身体を制御するどころか心の思うままに従って身をほろぼす最悪の結果となるかも知れません。


 狩猟でない、興奮して殺気立った「狩り」は狂気の沙汰ではないかと指摘しているのでしょうか。肉食動物であっても必要以上に殺すことがあれば食物連鎖を乱すことになります。殺すことだけが目的の「狩り」は猛獣にも見下される行為かも知れません。


 


 自身が行動して状況が変わる(=断捨離・草取り・掃除・・)のならまだしも、ゴシップや他国での出来事や火星のことや宇宙の成り立ちに頭を悩ます必要があるでしょうか。専門家に任せておけばいいだけのことであって興味の対象から外してもいいかもしれません。どうにもならないことを面白がるのが「私=自我・アイデンティティ」の癖のようです。


 只管打坐・ヴィパッサナー瞑想・手動瞑想・マインドフルネスなどは、興味(好奇心)を持てる感覚的な刺激を意図的に断ち、雑事に関わらない時間と共にある修練です。興奮や欲望と縁がなければどうなるかを直に経験できる貴重な体験を味わうことが出来ます。体験した人だけが知りうる感覚を味わうのもいいかもしれません。


 


 <まとめ>


・身の丈を超えて五感の味わいを求めて、身体を疲弊させる必要があるのでしょうか。


・イベント(=事象)が先に起こっていて、次に思いが湧き起こるので思いを制御できない。


・どうでもいい事に思考を使って、思考を追いかけていては悩みは尽きない。


・「今ここ」でのありふれた生活の中に「青い鳥」がいるのでは。


・当たり前の事(=老・病・死)を杞憂してもしょうがない。


・問題は自作自演ではないのか。


・自力で解決できないことに首を突っ込まない。


・どうでもいいことを問題にしない。


・問題がない時(=修練)の後の心境を体験してみる。


 




<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>