・自己、私:一般的に一人称として使われている言葉。


第三者が自らを表現するときに使う言葉


・「私」:事象を思考で振り返った後に、主体として使われる言葉。頭の中で事象を観察している自分。頭の中で、自らを観察し評価している自分。


・世界:一般的に他者と共通認識されていると思っている世界。


例:ただのガラスのコップは誰が見てもただのガラスのコップという共通認識、ただの熱帯魚、ただの夕食・・・・


・「世界」:「私」が観念で作り上げた固有の世界


例:高価なガラスのコップ、安っぽいガラスのコップ、映えるガラスのコップ、珍しい熱帯魚、三星の夕食・・・・


・事実:たった今のあるがまま


・識別:認知して分別する


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 般若心経に「遠離 一切 顛倒 夢想 究竟涅槃」とあります。私達が気にかけることがない普段の生活を「顛倒」してると指摘しています。当たり前として見過ごしてきたことが、全くの見当違いということでしょうか。


 なかなか気づけないであろうという点を観察してみました。


◯「私」が聞いている「私」が見ているということに何の違和感もないし不思議であるとは思ってもみません。「如」(=そのまま)「ただ」(=事実・あるがまま)がキーワードです。


 本当は見えている聞こえている事実が先であって、「私」は後付け。


 


 事実を観察すると:「私」が聞いているのではなく、「私」が不在であってただ聞かされているのではないでしょうか。聞こうとしなくても、音はどこららともなく向こうから発せられていて勝手に聞こえています。どうやって聞いているかも知らず、耳があることすら忘れ去られています。「如来」(=そのままが来る)であり「ただ」(=あるがまま)聞こえてきます。


「誰もいない森の奥で一本の木が倒れたら音はするか?」(哲学の問題)


 その場に居合わせ、音として認識できた人だけが「音がした」と主張することができます。極端にいえば、自らが感受できている「たった今の事実」以外は妄想(=事実ではない)ということになります。私達は、眼の前にいない人のことを平気で話しています。お互いに妄想しあって話していることになります。事実でもないことをおもしろおかしく話してはいないでしょうか。


 宇宙全体は常に変化変容していてます。生滅を繰り返していてとどまることがありません。頭の中で考えて出現ささているだけの「私」がどこにいるのでしょうか。


 


 「私」は見ているのではなく、見せられているのではないでしょうか。見ようとしなくても勝手に見えています。眼がどうやって見ているかなど知らずにあらゆる光景が見えています。まるで鏡に映し出されるように・・・。見えている事実には「私」を見出すことはできません。見えた事実が先にあって、「私」は後付けです。見えた事実を説明するために「私」という言葉が使われているだけです。


 私達の五感は何の努力も必要とせずに勝手に働いています。「意」も勝手に働いているのですが、「意」の働きを説明するために「私」を後付けさせています。いろんな考えが浮かぶ前に「私」がその考えをいちいち浮かび上がらせているのでしょうか。


 「対象」として認識される一切は「本来の自己」以外ですから、「本来の自己」ではありません。


眼の前のパソコン(=対象)は認識されるので「本来の自己(面目)」ではありません。自らが見ている自らの手(=対象)も認識されているので、「本来の自己(面目)」でありません。頭の中で考えている事も認識されているので、「本来の自己(面目)」ではありません。「本来の自己(面目)」は対象とならないので見出すことはできません。眼は眼を見ることはできません。


 


◯「私」が考えているのでしょうか。それとも、考えによって「私」が出現しているのでしょうか。


 


 「意」が眠りこけているときに「私」は見つかりません。そう「意」が「私」を作っています。「私」が「意」を働かせているかのように考えていないでしょうか。勝手に考えているなんて、「私」の自由意志で考えているはずだ思っていないでしょうか・・・。


 時計を見ながらでもいいですが、ちょうど1時間後に「富士五湖」を考えることができるでしょうか。休みの日に、1時間毎に何を考えるか決めて、朝の9時から夜の21時まで決めたことを考えることができるか実験してみます。「意」は「意」のままではなく、勝手に働いています。何が起こるか分からないのに「意」がどう働くかを決めることはできません。思いがけないこと(=用事・電話・・)が起こったら対応しなければなりません。


 身体も思考もほとんど無意識に使われていますが、「私」が使っているかのような印象があります。動物は無為自然に動いているように感じられます。


 こうあるべきだ、こうするべきだという理想を勝手に描きます。人と比較したり人生に意味や価値があるはずだと決めつけてしまいます。有為の奥山では分別によっています。意味があるということは、意味がないことを暗に認めています。意味がないということは価値がないに繋がります。更に進むと迷惑⇒排除⇒戦争へと行き着きます。分別の世界では「神」だけではなく「悪魔」も同時に存在しなくてはなりません。相対(=分別)で考えて答えを出そうとする限り葛藤が続きます。有為(=分別)の奥山を越えなければなりません。


 


「閑さや岩にしみ入る蝉の声」


 聴いている「私」もいないし、聴かされている「私」もいません。蝉が主で「私」が客でもなく、「私」が主で蝉が客でもない。聴かされてもいないし聴いてもいない。自らも現象と一体となり、現象そのもの。


 主も客もない、ただただ「その」状況があります。全体が蝉の声で満たされています。静けさが入る余地もなく、騒がしさも入る余地もありません。静けさも騒がしさもない。


 「蝉の声」を聞き分けている「私」など不在であり、全一であってどこにも境界はありません。岩も人も寺院も土も木々も空間も何もかも全てが同じ周波数で同調し振動しています。


 静寂と騒音という二項対立が成り立つ以前のまま佇んでいます。思考で処理する以前。あからさまの事実のと出会っています。思考以前なので名前がありません、その状況は名もない「それ」が「それ」としてある。


 


 私達は悩むから考えるのではなく、考えるから悩んでいるのではないでしょうか。考えていない熟睡時には悩みなんてありません。


 「夢想」:思考を使って妄想を止めることはできません。思考で思考を止めようとすることは、火で火を消そうとすようなものではないでしょうか。どんなことが思い浮かんでも追いまわさずに、放っておけば勝手に消えます。何の努力もなく(=意を働かせなくても)、諸行無常の中で生かされています。


 


 


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>