修行者が望むことは、


・煩悩を克服して、さとりを得たい。


・心穏やかに生きたい。


・戒律を守ることと引き換えに何かを得たい。


・忍耐・我慢することで自分を超えたい。


・穢れた世界から脱したい。


・慢心・嫉妬などに振り回されている自分を捨てたい。


・幸せになりたい。


・満たされた人生を送りたい。


・納得する人生を送りたい。


・生きる意味を見つけたい。


・モヤモヤを解決できる答えが得たい。


・違う自分になりたい。


・迷いの世界から悟りの世界に移行したい。


・・・その他でしょうか。


 


 修行して何かを得たり掴んだり、何者かに変化したら大変なことです。修行するということは、今の自分自身を受けいれられずどこか違和感があるという前提です。自己を自己(=見る人)と対象(=見られる人・他己)という二つに分離しています。見る自己(=我)と見られる自己(=他己)、対象(=見られる人)であるということは他(=他己)であり自己と他己が同居しているということでしょうか。自己としているのが偽物の自己(=社会的な自己)であって、見られる他己はどこにも存在していません。見ている自己(=通常私)は実体として存在しているのではなく、表象として名付けられた数字の”1”のようなものです。その時々・状況に応じて何でも”1”にすることができるようなものです。真なる”1”はどこにも存在していないのですが、人の都合によって何でも”1”にすることができます。”私(=自己)”も、姿形もない10年前であっても”私”と言うことができます。赤子の頃の”私”と現在の”私”と同じであるわけがないのですが、”私”は”私”だとしています。恒常不変の”私”など存在しません。


 


 本来の自己(=ただ見えている、ただ聞こえている・・)は分別以前のただ感受しているだけの状態です。感覚を自己の思い(=固定観念)によってふるいにかけて問題としています。分別という二元対立的に捉えてしまい分裂して決めつける。決めつけたことが思いとのギャップがあれば”何とかしよう”として問題とする。問題とすれば迷うことになります。問題としない、問題とならなければ迷う必要はなくただそのままに従う。現状をそのままに受け入れた従うことができないので”苦”となります。他己(=見られる自己)は自己(=社会的な自己=我)が作り出している亡霊かもしれません。


 修行することでどっちに転ぶかわからないにも関わらず、良い方に変化することを期待して修行します。修行しても掴めるものもないし得ることも何もありません。結局は何の確証も得られないままリタイヤせざるをえないかもしれません。掴むことも得ることもなく、掴もうとしているゲームをしているだけと気づくこと。


 ”我”の思い通りになるという前提で修行します。この思い通りにすすめていこうというのがまさしく”我”だということです。変わった自分を見てやろうとしている者が”我”であって、それが問題を作り出している張本人だと気づけません。なかなか見破ることは困難です。


 


 自己成長という題目を後ろ盾に頑張っているのですから・・・。頑張っている自身を否定することは難しいことです。迷っている自身を救うのですから従わざるをえません。迷いがあるから”悟り”があるということに疑問を持ちません。分別の働く以前の「一の箭」では誰でも同じだということです。分別によって混乱をもたらしているのが”我”であって、”我”の指示を受け入れたり反抗するとますます”我”が強くなるばかりです。本来はだれもが悟っているので殊更”悟る”ということはないのですが・・・。


 


「諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり修行あり、生あり死あり、諸仏あり衆生あり」 (現成公案)


 仏法という大袈裟なところから眺めると、迷いのある自身がクローズアップされます。迷いのある自身から抜け出して”悟る”ことができた自身を見つけ出そうとします。それには修行が必要だという単純な図式通りに動き出します。”我”によって二元対立の分裂が自然と発生することになります。この世に善悪はどちらの立場に立つだけのことであったり、明暗の境目がどこにあるのかもわかりません。昨日まで賊軍だったのが勝利すれば官軍になります。◯◯主義からすれば◯◯主義を非難する方は悪であるということにしなければ自己の正当化ができません。どちらが正しいのかはどちらで生まれたという偶然性しかありません。


 事実は一つしか無いのに、二つに分離させて考える癖が染みついています。自身も思い通りの自分と思い通りになっていない自分というふうに分けてしまいます。一つの身体でありながら、二つにして見られる自分と見る自分というふうになっているのが分裂しています。見えている事実、聞こえている事実しかありません。聞こえなければ音ではないという簡単なことも分かりません。


 「誰もいない森の中で木が倒れたら音がする?」が思考対象となっています。聞こえないのに音があったら大変なことです。幻聴ということになります。火星を見ることなしに火星があるという前提で会話することもできますが、ただの空論なのですが・・・。人間には素晴らしい想像力がありますが、事実(=真理)の中に生きつづけているにもかかわらず、妄想することが出来ます。妄想と事実の境目が分からずウロウロしているので、迷っているということになっているようです。


 既に事実の中で生きているのですから、事実をさらに思いの通りにすることはできません。個人がどうしてこの宇宙での出来事を左右できるのでしょうか?事実のままに既にいきているのですから、”何も変わりません”。釈迦や老子がどうのこうの考えても所詮はただの想像でしかありません。何とかしたいという”我”を事実と融合して、おとなしくなるように”我”に同調せずに見守るということを根気よくやっていくしかありません。


 何かを得たり掴んだりすることなどなく、ましてや何者かになるということはあり得ません。思考することで、身体のシステムが激変する人がどこにいるでしょうか。人間は人間として生まれ人間として死んでいく。単純なことです。物理的な”生老病死”という”苦”を滅することなどできません。そんなことができていれ今生きています。


 


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>