同じ対象であっても認識する生命体によって異なる対象として写っています。また、同じ生命体であってもその時の状況や心境で異なった捉え方をします。”ミミズ”を食糧とする鳥もいれば忌み嫌う人もいます。農家にとってはいい土を作ってくれるありがたい存在です。”竹”はパンダにとっては食糧ですが他の動物には食糧でもなんでもありません。個々にまったく異なる世界として捉えられているということかもしれません。


 海で溺れて死にそうになった人には海に近づきたくないかもしれません。真冬の海は荒れ狂っていて恐ろしく感じますが、真夏の海は魅力的に感じます。


 肌を刺すような真夏の日差しは避けたいのですが、新緑の日差しは心地よく感じまず。太陽はそのままですが、地軸が変化して気候が変化しているだけです。感受している生命体が変化を感じ取っています。


 ある生命体はモノクロの世界を見ているかもしれないし、他の生命体は極彩色で見えているかもしれません。他の生命体がどうのように感受しているかなど分かりません、あくまでも想像するだけです。


 


 偶然に同じ場所に隣り合わせ同じ光景を目の当たりにしたとしても、お互いにどんな心境でありどんな思いをしているかなど全く分かりません。  自身も瞬間瞬間に様々な思いが勝手によぎっています。自身が思いをコントロールしているのではなく状況によって変化させられているということです。自身も常に変化変容しているのに他人の変化変容している内心を知るなど不可能なことです。


 自身の内面を表現することもできないし、正確に伝えることも出来ません。他人の内面を知ることも出来ないし、正確に受け取ることも出来ません。百も承知の上で、始祖と言われる人が”悟り”・”涅槃”・”道”・・という訳のわからない概念を持ち出したのでしょうか。個人的な見解ですが、何もしない(=思考ストレスから解放され)ことで幸せホルモンが分泌されたということかもしれません。


 


 大前提ですが他人が感得したことなど知るすべもなく、照合することもできません。実際、禅の公案に”言葉”で表現したとしても、聞いた方は相手の内心を知るすべがありません。よって、何を言っても全部正解であり全部間違いということになります。表現したということでよく出来た、表現できるわけがないので不正解。公案は思考することの馬鹿らしさ愚かしさを体験することかもしれません。


 所詮”言葉”はその人が経験したことを持ち合わせている語彙から選んでいるだけです。フランス人の語彙と米国人の語彙とは異なります。フランス人が公案の答えをフランス語で言っても、聞いている方はサッパリ分かりません。


 ”言葉”では答えられないというのが本当のところかもしれません。何もわだかまりがないい地点の何もない(=空)がソレ。


 心境を”言葉”で表現した途端に心境からかけ離れたことになります。”素晴らしい”としか言いようがありません。その人の感じた”素晴らしい”という言葉を聞いたからといって、同一体験を体験することはできません。始祖がどんなに言葉匠に語りかけても”拈華微笑”とはいかないものです。ましてや文字から分かろうということは困難なことです。


 


 涅槃寂静:「煩悩、迷いや悩みが完全になくなった悟りの世界(涅槃)をいい、静かな安らぎの境地(寂静)であるということ。」とあります。貪・瞋・痴が無くなり安らかになったということでしょうか。一の箭を受けるのは始祖でも我々でも同じです。悔しい・憎らしい・悲しい・嬉しい・びっくりした・可笑しい・・・当たり前の感情であって否定することはできません。ある感情は駄目である感情はいいということなら、我々は矛盾した生命体ということになります。当然の感覚を否定して生きなさいという方がおかしなことです。”苦い”・”辛い”・”塩っぱい”・”酸っぱい”・”旨い”・・様々な味を味わってこそ料理となります。甘いものばかり食べていては甘いということに鈍感になるかもしれません。あらゆる味・香りを感じてこそ感覚が研ぎ澄まされます。


 悩みは”悪”であり悩みのないことをひたすら目指しなさいということでしょうか。悩みを自身と別物として”なんとかしよう”とすればいつまでたっても”悩み”という困ったこととしてあり続けます。悩みをジッーと味わう、悩みを解消するために逃げたり他人に八つ当たりししては自分と一体となっていません。悩みに振り回されず悩みが来たら悩みを味わうしかありません。”悔しい”は”悔しい”でいい。味わいの一つだということです。”悔しい”を自身から切り離して消滅させるできるのが”仏”でしょうか、それとも”悔しい”をとことん味わい尽くすのが”仏”でしょうか。何が起こっても(=どんな味でも)味わい尽くせれば、それこそ安らぎかもしれません。逃げ回ったり八つ当たりしたり他人に責任をなすりつけたり知らん顔したりいじめとなったり・・・一時しのぎであって安らかではありません。


 涅槃とは思考の結果として至る境地でしょうか、それとも脳の癖から脱して幸せホルモンが分泌している状態のことでしょうか。ホルモンの力は想像を絶するモノがあるようです。誰もが思春期の身体の変化を実感していることと思われます。動物は季節の変化によって身体的な行動が起こります。木々も日差しや温度・湿度の変化に影響されます。我々は精神的な変化が最後に感受されるので精神的なことが気にかかります。精神を変化させるのが思考だと思いこんでいます。肉体の変化こそが自身であって、思考によって肉体が変化したら大変なことです。“エンドルフィン”はモルヒネの6倍以上の鎮静効果と恍惚感をもたらすと言われています。”オキシトシン”は多幸感を与えてくれるそうです。思考することでホルモンが分泌するのならいいのですがそうではないらしい。思考するとストレスが溜まり疲れるばかりではないでしょうか。


 仲のいい人と触れ合ったり、犬と散歩したりゆったりと過ごしたほうがホルモンの分泌に効果があるようです。既にだれもが涅槃を味わっている


かもしれません。残念ながら涅槃という訳のわからない概念に取り憑かれて思考で追い求めていて見過ごしているかもしれません。平凡な生活の中でちょくちょく涅槃いるのに、どうでもいいことに首をつっこんで分別し”何とかしよう”として涅槃から出ているとしたら・・・・・・。


 


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>