参考:「香厳撃竹


 


 香厳智閑禅師がある日、道を箒で掃いていた所、箒に当たって飛んだ小石が竹に当たり、「コツン」と音がしました。香厳智閑禅師はその音を聞いた時、ハッと気がつき、釈尊の教えがどういうものであるかという事を、体験を通して自分のものにすることができたというお話です。


 小石が竹に当たった音は、聞こうとして聞いた訳ではないようです。事実を事実のままに感じ取っただけのお話です。自分も事実の世界に生きているということを実感したのでしょうか。分別以前のあるがままの世界の中で生き生きと生きているという喜びを味わったのでしょうか。


 


<参考>


・盤珪「不生禅」


・衆生本来仏なり(白隠禅師坐禅和讃)


・「無字の公案」有るとか無いとかいう(分別)以前が「それ」


 


 私たちは行動したり思考することで、何かを得たり何かを達成することを見ています。社会的成功と仏道とでは異なります。思考以前と思考後との違いに着目しなければなりません。


 例えば、映画での映像とスクリーン。無色透明の空間と山河。画布と油絵。画用紙と水彩画。夜空と花火。静寂と音楽。大地と花畑。鏡と映し出されたモノ。海と船。大空と漂う雲。ホワイトボードと文字。グラウンドと高校野球。半紙と書。茶室と茶。道場と武術。壁と掛け軸。・・・・・。映画はできれば真っ白で凹凸のないスクリーンに光の陰影が次々に変わることで映画になっています。 私たちは、変化している映像を追いかけます。スクリーンが無いことには映像はうまく映し出せません。


 


 「コツン」という音自体には意味や価値はありません。「コツン」以外の、カラスの鳴き声の「カーカー」であったり「ミンミン」「ポチャ」「ヒューヒュー」どんな音でも機縁があれば気づいたはずです。「分別(=思考)以前の音とは?」(=隻手の音声)と考え続ければどうなるでしょうか。


 聞こえた音は「何だ」と考える以前の聞こえたままの「音」に成り切る。聞こえている音と聞いている自分が分かれる以前。自らの五感で感受されたそのままの「素」。意味や価値を求める以前であれば客体としていません。つまり聞いている主体が不在のところに立ってみる。


 考えないようにと考えていていても、考えないようにとする考えのままに放っておく。同じことを考え続けられないで自然に消えていきます。聞こえていた音を消そうとせずにも消えるし、聞こうとしなくても聞こえていることに同調する。いつでも静寂が横たわっていることに気づきます。


 


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>