ある修行者が洞山守初和尚に、

修行僧:「仏とは何ですか」と訊ねた。

するとその時、台所で麻を秤にかけていた洞山和尚は、

洞山守初和尚:「麻、三斤じゃ」と答えた。

という公案です。


 


僧、洞山に問う、「如何なるか是れ仏」。

洞山云く、「麻三斤」。

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 「仏とは何ですか」と訊ねるという公案だとされています。普通であれば、修行僧が目標としている「仏=目覚めた人」はどういう人ですかの質問だと解釈するのが普通です。

しかし、答えが「麻三斤」なので、「如何」を「何ですか」と解釈してしまったのではないでしょうか。ちょっと勘違いしているのではないかと疑って検討してみます。

 



 「仏」は仏陀のように目覚めた人としてと解釈すればどういう答えがいいのでしょうか。これこれを備えた人だと列挙するだけなら公案になるでしょうか。公案として世に出したらどういうことになるでしょうか。


 


 「仏」を概念で捉えて概念で表現すれば、概念としての知識を記憶すればいいことになります。「目覚めた人」を知識にするということは、その人のアイデンティティを列挙しその人の経歴や功績を伝えることでいいことになります。


 


 禅師が「麻三斤」と返答したという事は「麻三斤」ではないということです。目の前の「麻三斤」が「仏」であるのなら、「仏」は物だということになります。修行して物になることはできないよねと言われたということです。目の前の「麻三斤」ではなく、「麻三斤」を見ているという自分自身を見なさいということでしょうか。すでに「仏」の働き(麻三斤を見ている)で生きていますよ。気づいてくださいと教え示しているのに。


 


 「麻三斤」と言われても何がなんだか分からない修行僧。

次に兄弟子のもとを訪れ

「麻三斤の意旨如何」:麻三斤と言われても意味が分かりません。

「花蔟々、錦蔟々、会すや」:それでは、花や紅葉を見れば分かる

「不会」:分かりません

「南地の竹、北地の木」:南に生えている竹、北にある木々ではどうだ

皆さんは納得できたでしょうか。

これが禅問答ですね。


 


物で納得できないのなら、場所を巡って探してみたらどうだ。と兄弟子は教えてくれました。

ということは「目覚めた人」を探し出すのは、物でもないし場所でもないということです。

何(=物)を探してもどこを探し回っても「仏」に出会うことなどありません。

「仏」を探している自分自身の内に「仏」を見出さなくてどこに見出すのか。


 


日常実践の禅ブログ

人それぞれの解釈があります。参考にしてみてください。



 


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>