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荘子ー19 [荘子]

昭文が琴をならし、師曠(しこう)が杖で地をたたきながら節をとり、恵子(けいし)が机によりかかって議論をしているのを見ると、この三人の才能は、それぞれ名人の域に達していることがわかる。いずれも才能のすぐれたものであり、だからこそ、その名が後世の書につたえられているのであろう。

 ①ただ、この三人はその道を好むと同時に自分の技能が他人よりすぐれていることを意識するところがあったし、その道を好むと同時に、これを他人に明示しようとする心があった。このように、かれらは明示すべきでないものを、ことさらに明示しようとしたために、恵子の場合は、堅白の論というような、わけのわからない議論に終わってしまったし、また昭文の子の場合は、父の業をつぐだけに終わり、生涯その業を完成することができなかったのである。

 もし、このありさまで道を完成したといえるのであれば、私だって道を完成していることになろう。またもし、それが道を完成したとはいえないというのであれば、私をはじめとする凡人はすべて、道を完成することはできないということになろう。

 ②このように他人に明示できるような道では、真の道を完成することは不可能である。だからこそ聖人は、暗くて定かでない光を放つことを念願とするのである。また、そのためにこそ、分別の知恵を用いないで、自然のはたらきのままに身をゆだねるのである。そしてこのことを、是非の対立を越えた明らかな知恵で照らす、というのである。

「引用:世界の名著 老子・荘子 中央公論社 P184 」斉物論

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 ①ただ、この三人はその道を好むと同時に自分の技能が他人よりすぐれていることを意識するところがあったし、その道を好むと同時に、これを他人に明示しようとする心があった。

 「無言の言・無弦の琴・不射の射・無為自然」とあるように、究極を窮め尽すと何も言う必要もなく、為すことも無くなってしまうようです。あることをやり尽くせばもはややる必要も無くなってしまう。子供が成長する段階でおもちゃに飽きてしまうことに似ているかもしれません。

 剣の達人は剣を捨て、弓の達人は弓を捨て、書の達人は筆を捨て、茶の達人は茶を点てず・・・。良寛さんの書は、子供のような書から達人の書まで全てを表現できているようです。真の演者はどのような役でも演じることができ、自然であり演じてるようには見えません。達人と言われる人は、動きに無駄がなく時間を忘れて惹き込まれてしまいます。

 達人の域に達すると、他人が認めてくれたり自身でも気づき意識するようになります。世界大会で自身の技や能力を明示することができます。  ②このように他人に明示できるような道では、真の道を完成することは不可能である。

 この文章では、道の完成という観点だけから見れば他人に明示しているようでは真の道を完成することは不可能だと言っています。分別心(=社会的な自己=自我)が働きすぎれば自己満足や虚栄心が優先となり自己(=自我)の自尊心を満たすための行動が起こってしまう。常に「本来の自己」がベースにあって、単に表面上で自然に起こっていることです。道の完成ということに論点が在り、何も自己(=自我)を責める必要はありません。

 人それぞれに才能があろうがなかろうが、才能に気づいていようが気づいていまいが、その時代だからこそ開花するというだけのことかもしれません。


   世に知れ渡っていることは真の道でない。皆が知っていることが真の道なら真の道など探求する必要はなく誰もが真の道に生きていることになります。世に明示したり知らせることができないのが真の道だと言っているように解釈できます。自然のはたらきの中に真の道があって分別(=社会的な自己)の働く以前の「本来の自己」のままの留まっているところに真の道の完成へのヒントがあるかもしれません。何かを意図的(=分別を使う)にするのではなく、何も得ようとしなくても掴もうとしなくても既にそのままにある(=本来の自己のまま)。

 奪われることもなく消えることのない生、自然のままに委ねられた生がそのまま道を実践しています。我々は自然の働きと共に生きていて自然の一部であり自然そのものです。我々は自然そのものでありながら、自然と分離しているという前提で生きています。自然に働きかけて自然を変化させて得たり掴んだりできると思う前提が外れれば楽なのかも知れません。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。 引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。> 

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