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荘子−18 [荘子]

上古の人には、その知恵が、それぞれに到達するところがあった。その到達したところとは、どのようなものであったか。

 最も高いものは「はじめからいっさいの物は存在しない」とするのであって、これは究極まで至りつき、すべてを尽くしたもので、もはやつけ加えるべき何ものもない。

 これに次ぐものとしては「物は存在するけれども、その物には限界ー他と区別される境界がない」というのがある。

 さらにこれに次ぐものとしては「物には限界があり、物と物とを区別する境界はあるけれども、是と非との区別、価値の区別はまったくない」というのがある。

 もし是と非との対立、価値の区別が現れるところまでくれば、道の完全さがそこなわれることになる。  道の完全さがそこなわれるところ、そこには物に対する愛欲が生まれる。

 ところで、いま道の完全さがそこなわれるといったが、果たして道には完全と毀損ということがあるだのだろうか。

 道に完全と毀損の区別ができるのは、たとえば琴の名手の昭氏が、琴を奏でる場合である。琴を奏でる以前の状態は、まだ道が完全な状態にあるときである。ところが昭氏がいくら多くの音を奏でたとしても、それは琴に秘められた無数の音の一部分でしかない。かれは琴を奏でるという人為によって、無限であるべき自然の道に限定を加え、これをそこなっているのである。

 道に完全と毀損の区別がないというのは、昭氏が琴を奏でないときである。このときは、無限である自然の道が、無限のままに残されているのであるから、完全と毀損との対立もありえない。

「引用:世界の名著 老子・荘子 中央公論社 P183 」斉物論

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 我々自身を含めたあらゆる事象について、その事象は音楽のようなものだとして観察してみるのもいいかと思います。我々が存在し活動していることがそのまま音楽を奏でていると想像してみてください。我々は存在として「ある」のですが恒常不変のままで「ある」のではなく絶えず生滅している「無常」の存在です。1日前の存在は確かに「ある」存在でしたが1日前とまったく同じ存在は一つとしてありません。

 すべては変化しながら存在していて、音楽のように今の「存在=音=振動」だけが「ある」だけです。ついに我々という存在は奏でることができなくなり消滅します(=死)。

 存在は演奏者であると同時に聴衆でもあります。観るものでもあり観られるものでもあります。


  音楽は、時間の経過とともに音程を変化(=前のものが消え新しく生み出しての繰り返し=生滅)して消えていくものです。音楽の一部を切り取って聴いても音楽にはなりません。動きを切りとっても動きになりません。  我々は連続した動きとして存在しています。動き(=生滅)することで生きているといえます。今の音が消えないと新しい音を聞くことはできません。常に生滅(=無常)することで生きているのですから、恒常不変の固定した存在でないことは確かなようです。

 何かを得たり何かを掴んだり何かに頼ったりすることで幸せになるというのなら、同時に不幸もあることになります。得ることはいつか失います、掴んだものはいつか離れます、頼ったものといつかは別れます。得たことで幸せなら失ったら不幸になります。何かを原因とする幸せは原因が消失すると幸せも消え去ります。

 一切が本来無一物(=空)であって、得ることも掴むこともできないと言う「本来の自己」の視点で観ることも大切です。得ても喜ばず失っても悲しまず。無常であって一時的であると知っていれば落胆することもありません。この世の物は借り(=仮)物であり使わさせて頂いている。

 物と同じように大切だと思われるのが記憶です。記憶は物でもなく実体さえ無いただの頭の中のイメージでしかありません。特に悲惨な記憶はなかなか消えないようですが、持っていても苦しいだけのようです。誰かに何かを言われてもただの音があっただけと割り切って、今は今の現実にただ「在る」。強烈に現実へと戻るために呼吸だけになるとか、坐禅するとか工夫が必要かも知れません。

 あとは嫌な記憶は真言の一つの「どうでもいい」「意味ない」・・で消してはどうでしょうか。


「生きるとは 呼吸することではない。行動することだ。」 ルソー


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。 引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

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