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荘子ー16 [荘子]

心を労して、むりにすべてを一つにしようと努力し、実はすべてが自然のままに一つであることを知らないもの、これを朝三という。それでは朝三とは何か。

 こういう話がある。あるとき、猿回しの親方が猿どもに栃の実を分配しようとして、「朝に三つ、暮れに四つでは、どうか」と相談した。すると猿どもははらをたてて「それでは少なすぎる」といった。そこで親方が「それなら朝に四つ、暮れに三つでは、どうかね」といったところ、猿どもは大喜びをしたという。名実ともに何の変わりもないのに喜怒の情がはたらくのは、自分自身のあさはかな是非の心に従うからである。

 だから聖人は、是非の対立を和合させて、差別の人為がない自然の境地ー天鈞(てんきん)に安住するのである。別のことばでいえば、是も非もそのままに是認して、両者をそのままに行かせることーこれを両行(りょうこう)というのである。 天鈞:自然のままに、すべてをひとしいとする境地。 両行:是非のいずれかを取捨選択することなく、両者をそのままに放任する。

「引用:世界の名著 老子・荘子 中央公論社 P182 」斉物論

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 別のことばでいえば、是も非もそのままに是認して、両者をそのままに行かせることーこれを両行(りょうこう)というのである。  「本来の自己」と社会的な「私=自我」を身近にあるパソコンやスマホで考察してみたいと思います。  機器を動かしているのは電気エネルギーとソフトです。共通で基本的なOSがなくてはなりません。社会的な「私」(=アプリケーション)は意識することなくOSと共存しています。


 「本来の自己=コンピュータのOS」は気づかれることなく働いていますが、実際に情報の入出力や一時記憶などによって処理を担っているのが「社会生活な私=自我=アプリケーションソフト」です。 OSは動作しているアプリケーションソフトの要求に応じて、周辺機器の管理と制御を行なっています。入力された情報の処理は各アプリケーション(=アイデンティティや固定観念)で独自に判断(=組み込まれたソフトの仕様)されたものであってOSは是非(=判断)には関知していないようです。

 社会的な「私」の判断(=分別)が無ければ社会では生きていけません。対立の根本は、社会的な「私」の判断が時代や社会環境や政治状況や各人の信念や様々な状況でコロコロと変化させられているところにあります。是非はその都度の都合によるルールによって決まるのであって、あるのかないのかも定かではありません。

 スポーツのルールでも、特定の国が有利になればスキージャンプでの長さを規制したりすることは当たり前のことです。ISOの規格も戦勝国の規格であることは誰もが知っている事実です。勝者や権力を持った者が是非を決めるのであって、どこでもいつでも誰でも不変な是非での判断がなされていることはないようです。  歴史を遡ると、戦禍のない時代は存在しないようです。また小さな小競り合いから国同士のいがみ合いや利権の争奪戦が繰り広げられています。当事者は自らを是とし他者を非として正当化しているだけのことです。


   日本の戦国時代での勝者も敗者も誰一人としてこの世には存在していません。やるかやられるか(=Dead or alive. )命を賭けて真剣に生きていた筈です。現代の私たちが冷静に史実と向き合えば、あらゆる戦いに正義などなかったと言ってもいいかもしれません。覇権争いの当事者も、巻き込まれた大衆も誰も得する人はいなかった。一時の自己満足や達成感や征服感や自己顕示欲を満たすために多くの犠牲があったことは事実のようです。  いつでもどこでも常に「本来の自己=共通OS」が働いているのであって、単に表面上で社会的な「私」が是非を判断しているだけなのだと気づいていなければならないようです。「朝三」でも「朝四」でもどちらでも同じことです。戦争ごっこ、探求ごっこ、成功ごっこ・・様々なごっこ遊びをしても許されているようです。社会的な「私」の本質を見抜き、「本来の自己」に軸足を置くことが望まれている時代のようです。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。 引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

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