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荘子ー13 [荘子]

 すべての物は、彼(か)れとよびえないものはなく、また是れとよびえないものはない。それなのに、なぜ離れているものを彼とよび、近いものだけ是れとよぶか。

 離れている彼れの立場からは見えないことでも、自分の立場で反省してみれば、よく理解することができる。だから身に近いものを是れとよんで親しみ、遠いものを彼れとよんで差別しているにすぎない。

 だから次のようにいえる。彼れという概念は、自分の身を是れとすることろから生じたものであり、是れという概念は、彼れという対立者をもととして生じたものである。つまり彼れと是れというのは、相並んで生ずるということであり、たがいに依存しあっているのである。

 しかしながら、このように依存しあっているのは、彼れと是れとだけではない。生に並んで死があり、死に並んで生がある。可に並んで不可があり、不可に並んで可がある。是をもとにして非があり、非をもとにして是がある。すべてが相対的な対立にすぎず、絶対的なものではない。

 だからこそ聖人は、このような相対差別の立場によることなく、これを天に照らすー差別という人為を越えた、自然の立場から物をみるのである。このような聖人は、是非の対立を越えた、真の是に身をおくものといえよう。  もしこのような自然の立場、相対差別という人為を越えた立場からみれば、是れと彼れとの区別はなく、彼れと是れとは同じものになる。たとえ是非をたてるものがあったとしても、彼れは彼れの立場をもととした是非を立てているにすぎず、此れは此れの立場をもととした是非をたてているにすぎない。それに、もともと彼れと是れという絶対的な区別がはたして存在するのか、それとも彼れと是れとの区別が存在しないのか、根本的に疑問ではないか。

 このように彼れと是れとが、その対立を消失する境地を、道枢(どうすう)という。枢(とぼそ)ー扉の回転軸は、環の中心にはめられることにより、はじめて無限の方向に応ずることができる。この道枢の立場にたてば、是も無限の回転をつづけ、非もまた無限の回転をつづけることになり、是非の対立はその意味を失ってしまう。先に「明らかな知恵をもって照らすのが第一である」といったのは、このことにほかならない。


道枢:扉の回転軸。万物斉同の境地を表すことばとして用いられる。

環中:環は、枢を受ける穴。彼此(ひし)や是非の対立は、すべて環の周囲におかれて無限に回転するが、環中におかれた枢は、そのいずれにもとらわれることがない。環中も、万物斉同の境地を表すことばとして用いられる。

「引用:世界の名著 老子・荘子 中央公論社 P177 」斉物論

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 私たちが自然に身につけた習慣(=脳の癖)によって、自身(=これ・主体)と対象(=あれ・客体)という概念(=前提)があります。

 常に変化して止まない社会的な「私」でありながら、言葉(=不変と定義づけされた文字と音)と記憶からなるレッテルによって「私」を定義づけているようです。誰もが「本来の自己」を意識することなく知っています。仮(=レッテルだけの実体のない)の社会的な「私」と「本来の自己」がゴチャゴチャになって世界を見ているようです。

 社会的な「私」はその都度変わっている状況や現象に対応してコロコロと変化(=思考や感情や感覚)しています。社会的な「私」が全てであるかのように振る舞い活動するので、社会的な「私」を生きながらえさせようと望むようになっているようです。

 社会的な「私=アイデンティティ=自我」は様々なレッテルを貼ったり剥がされたりして社会の中で生きています。レッテルは恒常不変なものではなく、社会の中だけに通じる仮の「私」です。

 小学生(=レッテルの一つ)であった「私」はもういません。今の自分を自己紹介するレッテル以前のレッテルは、ただ履歴書に書かれた文字だけかもしれません。

 誰かに会っても、お互いに履歴無しで付き合ったほうがいいかもしれません。履歴や格好を見て態度を変えるのは差別・区別で人と接していることを公言しているかのようです。

 本源は何も染まっていない透明で境界のない、一つの意識かもしれません。また今のレッテル(=アイデンティティ)を取り去った「私」は透明であり境界のない「空っぽ」ではないでしょうか。

 社会的な「私」は社会で生きていくために必要な「私」です。思考や記憶をおろそかにしたら社会に適応できません。あくまでも社会で適応していくため便宜的に他人に説明できる「私」です。全てのレッテル(=アイデンティティ)を取り去って性別も年齢も出身も◯◯国の人でもない「素のあなた」は、一体誰なのでしょうか。


 今ある「私」は存在しないわけではなく、仮のレッテルを取りされば何も定義づけされていな「何でもない存在」としてあるだけです。  あらゆるものに意味があり価値があり特別であるならば、特別などはないのと同じです。毎日が特別なら、特別が当たり前(=普通となり)であり何でもない日となります。どれもこれもユニークであって比較する意味などあるでしょうか。

 社会的な「私」は何でもないもので、対象としているものも特別でない何でもないものである。

 自己を主体と見なしているかぎり、対象(=客体)としての相対・対立的な視点以外から観ることは困難なように思われます。

   社会的な「私」の視点から離れ、「あれ」と「これ」という対立概念なく一切が名前のない「ただの何でもない存在」があるだけ。是非も社会的な「私」の立場や環境によって生じている一時的なものでしかないかもしれません。


「人間が自分で意味を与えないかぎり、人生には意味がない。」エーリッヒ・フロム


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。 引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

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