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無明ー15 [無明]

「何でもないが何かになる」  私達は生きていく中で様々な体験をしています。成人になるまでに大きな影響力の下に生きています。生活環境・家族・先生・先輩・友達・TV・SNS・本その他から勝手に入ってくる情報や習慣等です。世界では、強制的に◯◯教徒になっている人もいます。”いのち”の本質が何でもない「空っぽ」だから、なんにでもなれるということかも知れません。

 周囲の環境によって大きく左右されているにもかかわらず、自らが自己を確立したように感じてしまいます。生まれる(=「私」という幻影の自我)前は何者でもありません。生まれようと意図して生まれてきたわけでもありません。ただ「在る」という感覚だけはいつでもあるようです。確認してみて下さい。

 各人の主義主張や思想や観念は知らないうちに更新されているようです。アイデンティティは不変ではなく常に変化しています。会社員というアイデンティティは退職によってあっけなく消え去ります。アイデンティティ=「私」とは無常であり実体があると信じることはできません。

 現代社会は非常に便利で必要な情報は手軽に入手出来るようになっています。逆に「知らなくてもいいこと」も無防備な五感を通じて「知る」ようになっています。五感は常にオープンであり、氾濫している情報から逃れることが難しくなっています。意識して情報を遮断しないと情報の底なし沼に足を引っ張られることになりかねません。

 探究の欲はとどまることを知りません。普通に日本で生活していて他国に知り合いや移住する必要がない状態であるなら。「太陽の黒点」「ブラジルの天気」「アメリカでの殺傷事件」「セレブのゴシップ」「深海の状況」「宇宙空間にあるデブリ」等々は「知らなければならない」ことでしょうか。心配の種を購入して、自らが水をやって育てて大きな「不安」の果実を刈り取らなければなりません。

 どんなに考えても「太陽の黒点」を減らしたり増やしたりはできません。どんなに考えても「ブラジルの天気」を変えることはできません。 考えても行動にできなければ空論です。空論のために頭を使うほど無駄なことがあるでしょうか。しかし、見せられていることに気づきません。

 見ているのか見せられているのか。知ろうとしているのか知らされているのか。聞こうとしているのか聞かされているのか。味わっているのか味わされているのか。生きているのか生かされているのか。思考しているのか思考させられているのか。

 何もないのが寂静なのか、何かあるのが寂静なのか。寂静は求めて手に入れるものなのか、寂静であることを発見すればいいのか。求めることが既に乱している。生を求めなくてもすでに生きています。バラ色の生を求めなくても平凡な生でどこがわるいのか。・・・・  なるべく思考をつかわないで、一息ごとに「今ある」と共にただ「今ある」。


そうすると「ただいま」となり、あるべき本源がそこにある。 「今ここ」に立ち戻るには、手動瞑想(=https://www.youtube.com/watch?v=gcBeC6Qdg9k&t=2s)やヴィパッサナー瞑想の実践によって身体が教えてくれます。精神があって身体があるのでしょうか。身体があって精神があるのでしょうか。精神が身体を鍛えるのでしょうか身体が精神をきたえるのでしょうか。身体と精神が一致して一体となった時、ただ見ている、ただ聞こえている、ただ味わっているすべてがエネルギーのダイナミズムと共にある。誰もが体験しています。

 カメラのファインダーを覗いている見ている景色とすでに一体になっています。撮ってやろうという「私」はいないはずです。ただ「今」のまま。そのまま=素のまま、物心のない仏心でいる。


<ポイント>

・固定観念は人間の習性で自動的につくられる。 ・「私」など存在しないのに、アイデンティティ=「私」となっています。

・無防備の五感へ情報が降り注いでいます。

・「知らなくてもいい」ことを「知らされている」ことに気づきません。

・一切は差別・区別はない。自身も本来はニュートラルです。

・「知りたい」という本能によって「知るべき」という強迫観念があるようです。

・「知らなくても生きていける」ということを知る必要があります。

・時間の観念によって、不安は自らが作り出しているということに気づく。

・「今ここ」は不安も葛藤も何もありません。

・「今ここ」にいることを身体に教え込むには実践が必要です。 ※コメントがある方はコメントをお書き下さい。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。 引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

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