So-net無料ブログ作成

無明ー8 [無明]

 我々は「ちっぽけな心」に振り回されうんざりしています。我々の今までを振り返って見ましょう。

・社会や親からいい子になりなさいと教え込まれています。

・大人の世界は偽りの世界だとよく知っています。 ・理性で上辺を取り繕ってなんとか生きています。

・妬み僻み、優越感や劣等感を感じなが振り回され翻弄されて生きています。

・聖人とは何かを身につけた特別な人だと思い込んでいます。

・人は努力すれば、達成すると思い込んでいます。

・成就すれば何ものかに成ると思い込んでいます。

・体験することによって自身が変わると思い込んでいます。

・学ぶことで成長すると思い込んでいます。

・思考によって自分が変わると思い込んでいます。

・知識を得たり知ることで何かを掴み取ることができると思いこんでいます。

・我々は何かをしていないとだめになると思いこんでいます。

・精神的な向上は執着ではないと自己正当化しています。

・お金があれば幸せだと思い込んでいます。

・シワが少なくなれば若く見えると思い込んでいます。

・瞑想すれば苛立ちから解放されると思い込んでいます。

・身体を痛めつける修行には効果があると思い込んでいます。

 「ちっぽけな心」は、様々な設定を自らに課しています。手を変え品を変えて、徐々に変化して成長していると自らを鼓舞しています。何かをしていれば精神的な成長があると「心」が物語を演出しています。

 精神修養のためには大金を惜しまずに遣います。しかし、見返りを求めているというところが「ちっぽけな心」の狡猾なところです。

 ちっぽけな「心」も全ての一つの顕れです。自らが自らで自作自演の劇の主人公として演じています。  自らが作ったトリックを自らが見破ることができるでしょうか?

 思考しているのだから解決できるはずだという思考回路を見破ることは容易ではありません。これが思考の輪廻です。思考しないでどう解決できる?こういう通り一片の教育と思考のクセによって自らが問題を作り出しています。

 思考しているところに新たな思考を重ねています。思考のエネルギーを補充しながら思考の連鎖を自らが作り出しています。


 思考は放っておけば消えていきます。あらゆる物質やあらゆる現象で消滅しないものがあるでしょうか?この世は無常であるとのはっきりと体得する必要があります。

 自身の子供の頃からそれぞれの年代で抱えてきた「悩み・苦しみ」が残っているか考察してみて下さい。過去の「悩み・苦しみ」を無理やり思い出さなければならないほど気にならないのではないでしょうか? 学生時代の事など笑い話になっているはずです。

 我々の生活は記憶に頼って生きている訳ではありません。記憶するために経験している訳でもありません。記憶には実体がなく勝手に書き換えられることもあります。朝起きて夢の中で様々な体験をすることがあります。しかし、その体験が実体のない「夢」の中の出来事であったと理解できたとき、気にしたり記憶しようとする人はほとんどいません。霊的な体験は睡眠時に見る夢と異なり、記憶すべき貴重なものなのでしょうか?  私は◯◯の体験をして「仏」に成った。私の夢枕に「お告げ」がありました。私には使命が与えられました。私は◯次元の体験をして霊的に成長しました。私の今生の役割は◯◯です。人々に何かを授けて人々を変えることの出来る人間です。全て脳内の電気信号の乱れか化学物質の過多による一時的な現象かもしれません。

 女性が夢の中で「行司やプロ野球選手」になりなさいとの「お告げ」を何度も何度もあったらその「お告げ」の通りにするのでしょうか?5才児が「モンゴルの遊牧民」の夢を見ることが出来るでしょうか?記憶にないことや想像できないことはなかなか「夢」には出てこないようです。

 そもそも自身の頭で起こっていることなので、「行司やプロ野球選手」という「お告げ」は出てこないのではないでしょうか。自身の想像の及ばないところで引き起こされた「夢」ではなく、自身の思いや自身の願望が関与している勝手な都合の良い「夢」でしかないということではないでしょうか?

 何度も「お告げ」があるようであれば、よっぽど自身で希望しているか執着しているかを点検するひつようがあります。また、「お告げ」が無くならないようなら精神的な疾患を疑うことも必要です。

 脳内で起こった偶然のたった一度の体験を売り物にしてどうするのでしょうか?  何時までも体験を引きずって執着している人が他人の執着のことをとやかく言えるでしょうか?

 東洋人に多い一重瞼で鼻の低いキリスト像があるでしょうか?髭のないアラブの神の姿が夢に出てくるでしょうか?未開の地で生活している子供がシステムエンジニアを夢見るでしょうか?

 人間の置かれた環境や文化の範囲内で構築された概念が正しいのであり、自分たちの見えているものや受けた教育だけで作り出せていないというのが人間の限界ではないでしょうか。

 「ちっぽけな心」のトリックを暴いて、アイデンティティの束縛から解放する手助けをする。固定観念の呪縛に気づくようなアドバイスを与える。脳の習性・クセを自身で疑って自身で気づいてもらう。この力量があるかどうかです。  有限の知識や概念で無限・永遠を定義しようとしています。

 見えた瞬間、聞こえた瞬間、味わった瞬間、感じた瞬間に全ては理解されているという事実(=真理)があります。「綺麗な赤い薔薇」と頭の中で言葉に出す前に、赤い花は見えているし知られています。

 言葉が浮かぶ以前、思考以前に既に知覚しているのが「仏」であり、既に我々は完成されています。我々は何者かにならなくても既に達成されている「仏」です。  頭の中の「私(=自我)かわいい」という裁判官による分別を持ち出して対処しています。只の事象(=片手)が起こっているだけなのに、「私(=自我)かわいい」というもう一方の片手で事象(=片手)をビシビシと叩きます。頭の中でああでもないこうでもない、ああすべきだこうすべきだとけたたましく音を出しています。

 誰も他人の頭の中の「おしゃべり」を聞くことはできません。自身の頭の中では大騒乱が起こっていますが、日常は何事もなく過ぎ去ります。

 頭の中でどんなにわめき騒ごうが、頭の中の出来事をさらけ出すことはできません。自身の頭の中だけで両手を叩いていることに気づくことです。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。 引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

nice!(1) 
共通テーマ:学問