So-net無料ブログ作成

無明ー7 [無明]

 我々は一切を既知とするために概念化(=事物に対して意味・定義づけ)します。概念によって作られた「言葉・名前」を一切に割り当てます。世界のあらゆる事物・事象にラベルをつけています。一切が既知のものであるかのように振る舞います。

 我々は「名前」のつけられた既知と出会ってきたわけではありません。眼前の未知だけに出会い続けています。過去と出当たり、今を通りこして未来に出会うことなどありません。今出会っている未知も一回限り(=一期一会)で消滅しています。一切は無常であって既知としているものは、頭の中のただの概念だけで実体はありません。全体でしかないものを、個々に都合よく分離させて名づけているだけです。

 全く変化のないものなどありません。「言葉」が変わらないからと言って実体も変わらないということはありません。「富士山」という呼び名は変わりませんが、実体の「富士山」は刻々と変化しています。有史以来、空に浮かぶ雲の状況が同じであることはなかったし、これからも同じことはありえません。

 我々には無限に広がっている未知しかなく、知り得ることのない(=未知)を既知という単なる定義で知ろうとしています。

 知って解釈する以前に既に見聞覚知している「本来の自己」がいるということに目を向けなかればなりません。未知に対処できている「本来の自己」がいます。「本来の自己」によって、安心して生活できているという事実に驚かなければなりません。


  我々の習性・クセである、知るということは「苦しみ」でしょうか「喜び」でしょうか?  例:江戸時代に江戸に住んでいた人が、北海道で何が起こっているかなど知らなくても生活できていました。また、北海道の天候など知らなくても良かったのではないでしょうか。

 我々の生きている現代ではどうでしょうか?世界の天気や世界の出来事など様々な情報が溢れています。  科学者は火星の状況や太陽のリアルタイムの状況を分析しているようです。

 テレビからどうでもいい情報が垂れ流され、疑うこと無く見たり聞いたりしています。見たことにに対し、自動的に固定観念から自分なりの判断を下しているのではないでしょうか。これが脳の習性・クセです。頭の中で絶え間なく「両手」で音を出し続けています。片手は情報でもう一方の手は自身の固定観念(=こうあるべき)で思考して分別という音が鳴り響いています。


  一回立ち止まって冷静に自身の習性・クセを観察しても何も失うものはありません。

 世界の天気を見ているだけでスルーすればいいのですが、脳内で何かしらひっかかれば音が出たことになり害(=静寂を破ること)になります。火星がどうなっているとか、太陽がどうだとか、外国で災害があったとか、全国の天気がどうだとか、交通事故がどうだとか、育児がどうだとか、人工知能がどうだとか、MLBがどうだとか・・・あらゆることを見て聞いてもスルー(=片手のまま)できなければ頭の中で音(=混乱や葛藤)を出し続けて騒ぎつづけ平安や静寂でいることなどできません。

  頭の中ので騒ぎたてて悩み苦しみを増やし続けています。どうしてこんなに混乱・葛藤しているのか?どうでもいいことに関心を寄せて自らが自らを苦しめているということに気づかなければならないのではないでしょうか。  例えば、海外のリゾート地で波の音を聞いて寛いでいるのに日本の天気や日本の交通事故や様々な事件を積極的に知ろうとするでしょうか?どうでもいい情報から離れて寛ぐのが目的なのですから遮断したほうが楽な筈です。  自宅をリゾート地としたければ、どうでもいい情報を遮断することが最善の方法です。知れば害になるということに気づいて本当に遮断できるかどうかが第一のステップになるのではないでしょうか。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。 引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

nice!(1) 
共通テーマ:学問