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無明ー6 [無明]

 両手を打つと音がします。聞こうと思わずとも聞こえてきます。音がしたと勝手に知られます。次に思いが起こります。

 片手は空を切るだけで音など出てくることはありません。一生懸命に聞き耳を立てても聞くことはできません。音はどこにも出現していないので音としては感受することはできません。

「無音=無」であるものを捉えたり、掴んだり、知ったり、理解したりということはできません。 分離していないものは「ただ一つ」であり他とぶつかって音を出すことはありません。

 二つが触れて音が作られ、音が出て、音が空気を振動し、音が耳に届いて、音が可聴域であって心が認識するものだけ音として感受します。音に対して何らかの思考が浮かんできます。

 我々の両手の音にはどのようなものがあるのでしょうか? ・感受したものに対して自身の固定観念で自動的に瞬時に思慮分別します。

・我々の直面する問題は、知識を使ったり思考することで解決される。

・学習することで人間は成長するものだ。 ・お釈迦様のようになれば、身体に苦痛や病気があっても「苦」ではない。

・人間ゴータマ・シッダールタから仏である「お釈迦様」に成った。仏になるには何らかの苦行が必要だ。

・「お釈迦様」は「特別」の存在であって普通の人間ではない。

・誰か指導者(=グル)がいなければ成就は不可能である。

・特別な「体験」が無ければ変化はないはずである。

・探究すれば必ず答えが見つかる。

・仏典を読んで理解すれば苦を滅することができる。

・何かを掴むか、何かが与えられて何らかの変化があって何かに変わるはずだ。

・身体は自分である。心は自分である。感情や感覚も自分である。思考は自分のものである。

・私は認識する主体である。 ・私は探究にうんざりしてるが探求すれば何か発見するはずだ。

・アイデンティティが私であって、アイデンティティを持ってさらに何か理解したことを付け加えて成長していく。

 見聞覚知したものに対して思考し分別することが、すべて真実で正しいと疑わないことが脳の「習性・クセ」であること理解しなければなりません。自分自身で脳内で両手を叩いて混乱しているということを自知します。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。 引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

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