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十牛図3−2 [十牛図]

第3図.見牛(牛を見つける) 頌(じゅ) うぐいすが枝の上で鳴いている。 春の日は暖かく、風はなごやかに吹き、川岸の柳は青々としている。 そんな光景のなか、見るもの聞くもの、すべてが牛になってしまった。 こうなっては、どこにもこの牛から逃げられる場所はない。 さて、その牛の頭には美しい角がある。 その角を、どんなに上手に描いてみても、本物の美しさには、かなわない。 ----  分別の働きが一時的に止まり「あるがまま」を垣間見ることができました。一瞥と言われる体験をしたのでしょう。  いままで聞き流していたうぐいすの鳴き声がなぜか新鮮に聞こえます。うぐいすの鳴き声をきいて「うぐいす」という言葉は思い浮かばず、澄んだ鳴き声が響き渡っています。一切が新鮮であり初めて地球に降り立ったかのようです。  陽の光から降り注ぐエネルギーも心地よく身体を暖めてくれます。そよぐ風に身を任せると風になって自分の存在も忘れるようだ。  柳は生き生きとして生命力に満ちあふれている。見るもの全てが生き生きとして生命感に満ち満ちている。この世界がこのまま続くのだろうか。 -- 『閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声』  勝手な個人的な解釈です。惑わされずに自身で考察してみてください。  閑居な所と想像していたが一歩一歩登って行いくと、蝉の声は止むどころか一層激しさをましてくるようだ。木陰で立ち止まって目を閉じると、四方八方立から包み込まれるようだ。けたたましいくとめどなく蝉が鳴いている。鳴き声は果てるこを知らないようだ。あの小さな蝉のどこにこれほどのエネルギーがあるのだろうか。7年もの間地中で過ごし、一気にエネルギーを発散しているのだろう。潜在意識にしまいこんでいる煩悩も時がくればこのように一気に騒ぎ出す。鳴き声を止めることなどできない、だだおさまるまでほうっておくしかない。  何処に行ってもこの大音響の蝉の声から逃れることができない、いっそのことこの音と付き合い身体の芯まで感じてみよう。エネルギーのバイブレーションと一体化することで浄化するようだ。  大音響の蝉の声が響き渡っているということは、この場所から一歩外に出れば全くの静寂であるということになります。  身体のある部分が痒いということは、他の部分は何も痒くないということです。際立った部分にフォーカスしますが、際立たないところがほとんどであるからこそ目立つのです。気づかない何もない「無」のほうが大部分であり重要だということに気づく必要があります。  太陽が光り輝くということは、他が全くの暗黒だということです。輝く部分にフォーカスするのではなく、暗黒にフォーカスしなければなりません。  思考している「わたし」が重要ではなく、思考していな部分こそが全体であってなにもない空っぽであると見抜けるかどうか。  我々の脳も本来は静寂であるのですが、思考や分別によってけたたましい蝉の声がしているようです。岩にしみ入るようなとは、脳内でいつまでも反響している声が反響することなく岩(=頭蓋骨)を通って消えてしまう。けたたましい騒音であっても、ただひとときの音声(おんじょう)でしかない。 --  一瞥は至福に満ちた世界であったのに、いつのまにかありふれた世界に戻ってしまった。言葉のないダイレクトな感覚であったのに、あらゆるものが概念化されたラベルであり評価をつけてしまっている。あらゆるものは識別の対象となり、あらゆることは知っておきたい。既知によって安心を担保できるというのが脳の癖です。  すべては牛(=混乱の原因)であり白黒つける対象です。見るもの聞くものは何でもないただの”あるがまま”の自然です。分別する前から存在していて、是非も美醜も好悪も一切何もありません。  分別心を持ち歩く限り、二元対立(=牛)から逃れる場所はありません。  哺乳類脳・爬虫類脳の上には人間脳があります。人間脳で想像する角(=本来の自己)を想像しても知性では絵に描いた餅です。  分別心を捨て去り、心を清浄にしていかなければ垣間見ることはできません。  戎を守り、定を行い、智慧によって心を清浄にしなければなりません。 <注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。 引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

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