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十牛図1−2 [十牛図]

尋牛(牛を探す) ①はじめから失っていないものを、どうして探し求める必要があるのだろうか。 ②せっかく持っているものに背を向けているから、大切なものを見失ってしまう。 ③自分にないものを探せば探すほど、自分が本来果たすべき役割からは遠ざかり、人生の分かれ道にぶつかっては迷いこんでいく。 ④炎が燃えさかるように損得で物事を考え、刀の穂先が次から次にわき起こるように善悪で物事を判断しようとするから、自分を見失い、大切なものに気づかなくなるのだ。 ---- ③自分にないものを探せば探すほど、自分が本来果たすべき役割からは遠ざかり、人生の分かれ道にぶつかっては迷いこんでいく。  自分に無いもの:すべてがオープン・シークレットです。秘密なんて何もありません。概念で作られた言葉や新しい概念で飾り立てても、概念を超えたものを理解することは難しい。しかし、言葉を使わなければ近づけないのです。  知らないから知りたい、知りたいから哲学をする。哲学するということは知らないから、知りたいと頑張る。我々が思考する大前提は、無知だということです。  体験(=身体で体得すべきこと)でしか分からないことを「言葉」を使って理解しようとすることがそもそもズレているということです。  春の日ざしの中で桜が舞っている中。なんとも言えない温かみと開放感を「言葉」で表現したい。言葉より、その場での味わいに勝ることはできません。人間の脳はファンタジーとリアルの区別がつかない。脳でのファンタジーを現実として受け入れ、実際の「行動」がなくても満足してしまう。  お釈迦様に成ろうなて無理なこと、全くの別人格です。環境も時代も社会制度も全く別世界に住んでいます。自分に無いと思って付け足すものなんか何一つありません。付け足すどころか捨てて捨てて捨てまくる。  社会で活躍するのも役割の一つだけど、清浄なる「本来の自己=潜在意識」と出会うのが人間として生まれた最大の役割。人生の分かれ道は全てが気づくための試金石。外の世界の物欲にはまったらどんどん迷っていくだけ。 ④炎が燃えさかるように損得で物事を考え、刀の穂先が次から次にわき起こるように善悪で物事を判断しようとするから、自分を見失い、大切なものに気づかなくなるのだ。  この世では、ちょっとでも人に認めてもらいたい。ちょっとでも得をしたい。哺乳類脳の中の扁桃体は休むこと無く取捨選択に追われています。大脳辺縁系には、次から次に起こっている事象に対処するプログラムがあります。物事を二つに分離してきっちりと白黒つけてくれます。  何も知らない未知の世界に生まれてきました。親が教えくれます。大人が教えてくれます。全部白黒をつけて選別するように教わりました。自分でも選別できるプログラムを日々アップデートして完璧なものにしてきました。  自分で作り上げてきたプログラムを疑ぐるなんてできません。このプログラムのおかげで世の中を渡ってこれたのですから。プログラムが自分になってしまいました。私の行動パターンはAIの方がよく知っている世の中になりました。一体私の判断なんてどこにあるのでしょうか。すべてが自動で処理されています。自動処理になんの疑念も起こらない。自動操縦されている自分にも気づかない。  大切なことは判断しないで中立でいられることだということ。最初から白黒ついているものなんてありません。人を乗せてくれる車は善で、人にぶつかる車は悪です。車は止まっていれば善でも悪でもありません。  対象が自分にとってどう働くか、自己中心の我が身にとって損か得かといったちっぽけな判断基準が人生のすべて。ちっぽけなプログラムがいくつも結びついたら膨大なプログラムになります。一つ一つ紐解いていくしかありません。  ちっぽけな判断基準で自分を見失ってはいけません。恒常不変の観念が恒常不変「わたし」を作り上げています。これからも観念に縛られて生きていくか、観念を観察して観念という呪縛から開放されるか。大切な清浄なる哺乳類脳に気づけるか。 <注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。 引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

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十牛図1−1 [十牛図]

尋牛(牛を探す) ①はじめから失っていないものを、どうして探し求める必要があるのだろうか。 ②せっかく持っているものに背を向けているから、大切なものを見失ってしまう。 ③自分にないものを探せば探すほど、自分が本来果たすべき役割からは遠ざかり、人生の分かれ道にぶつかっては迷いこんでいく。 ④炎が燃えさかるように損得で物事を考え、刀の穂先が次から次にわき起こるように善悪で物事を判断しようとするから、自分を見失い、大切なものに気づかなくなるのだ。 ---- ①はじめから失っていないものを、どうして探し求める必要があるのだろうか。  牛(=哺乳類脳・爬虫類脳の真の姿)を探しているのは、哺乳類脳から進化した人間脳(=大脳皮質)と想像してみてください。  人間脳は哺乳類脳・爬虫類脳に比べ進化の余地がある神経組織のようです。普段表立って意識できる顕在意識であるがゆえに、思考している我こそが主役であり我が身を操っていると勘違いしているようです。圧倒的な力を持ち、我が身を統制管理しているのは潜在意識(哺乳類脳・爬虫類脳)のようです。潜在意識が主役であり無意識に我が身を操っているのではないでしょうか。完成度という視点からみれば、人間脳は脇役であり哺乳類脳・爬虫類脳が主役として活躍しています。  我々は見えているものよりも、見えない法則の働きによって生かされています。リンゴが落ちるのは見るのですが、重力は見えませんが重力の法則によって生かされています。地球の自転、フレミングの法則、エントロピー増大・・・等限りありません。自身の身体であっても、身体の中で起こっているエネルギー変換や、脳内で起こっていることなど全く知らずに生かされているということです。  見えているだけの些細なことに気を取られ、大事な部分を見逃し続けているようです。リンゴが落ちるのは誰もが目にしていますが、法則性を発見するのは容易なことではありません。  既に全てを持ち合せているのに探し回り、得ようとか成ろうとかしてかえって遠ざかっているようです。  「本来の自己」は一体何処にあるのでしょうか。「本来の自己」は我々の頭の中(=脳)以外の何処を探せばいいのでしょうか。戒定慧はなんのためにあるのか熟考すれば自ずと答えが出てきます。  我々の身体は単なる受精卵から成長した身体でしょうか。宇宙の創成によって宇宙の中で我々は存在できています。宇宙と共に存在が約束されていて、今こうして現存している身体でしょうか。稀有な確率で奇跡的に存在しているのでしょうか。宇宙の物質が無かったら我々の身体は出来ていないと思われます。我々の身体は宇宙の物質でないと否定することはできません。まさしく宇宙物質そのもので我々の身体が作られています。反物質やダークマターを知らずしても生を謳歌できています。  「本来の自己」は物理的な空間や過去や未来という時間の中に固定されているのでしょうか。「本来の自己」が恒常不変なものであり、勉強することで知識で得られる対象なのでしょうか。  厳しい修行をして自らの肉体を痛めつけたり(=苦行)すれば肉体が異なる次元へと変化して仏となるのでしょうか。  十牛図では、自己の探求といわれています。何かに成るとか、何かを得るということは探求ではありません。現代の人間の能力を持ってすれば、何かに成るとか何かを得るということ位ならば既に達成できている筈ですが・・・。  何かに成った人が前の形と成った完成形の違いを示すこともできません。何かを得たという人が得たものを開示できているようでもありません。  「本来の自己」は変化成形させて作り出すのでしょうか。何かを得て「本来の自己」が完成するのでしょうか。  「本来の自己」は誰にでも既に「ある」のですが、「本来の姿」ではなく「色付きフィルターで覆われた」状態であるように思われます。「本来の自己」は清浄となった脳の働きに他ならない。貪・瞋・痴から解き放たれ(=清浄)自由となった脳の働きを想像してみてください。人間脳との齟齬は存在しているでしょうか?齟齬がなければ苦となるでしょうか?  年中無休で一時も休むことも無く働いている潜在意識があり、潜在意識のおかげで顕在意識(=大脳皮質)が必要な時に働かせてもらっているのではないでしょうか。  いのちには五感が備わり平等に働いていいます。  目は一切の執着もなく忌避もない。今見ている所から、他の所を見た瞬間に今まで見えていたものはたちどころに消え去っています。完璧な無常を体験しています。一切の私心や我執もなく見えたままでしかありません。完璧な無我を体験しています。  目が自己主張して特定の物を見えなくしたり特定の物を残像として何時までも残しておくこともしない。目は純粋で一切の区別差別のない働きを持ち続けています。目は解脱しています。  他の感覚も推察してみてください。無常であり無我であると見抜けるはずです。  短期記憶が使われることで脳内に作られた映像(=ただの化学物質や電気信号のやりとりであり実体は無い)が一時的に有るように感じられるだけです。実体が無い(=空)にもかかわらず「有る」として識別作用を働かせ好悪や是非という尺度で「評価」して脳内に電気信号や化学物質が交錯しています。  この「評価」には、色付きのフィルターが残ったままの潜在意識(哺乳類脳・爬虫類脳)によって判断されています。  自己の生存を願って止まない本能。「我が身安全第一」として働く、自己本位・自己最優先の潜在意識が最強の力を発揮してることに気づかなくてはなりません。この潜在意識をなだめ躾けて清浄にしていく過程を図にしているのではないでしょうか。 ②せっかく持っているものに背を向けているから、大切なものを見失ってしまう。 背を向けて:感じているもに執着したり忌避したりしている自分が厭になっている。そんな自分がほとほと嫌いになりつい背を向けて自己否定している。本当の自分を求めたい欲求が起こったということは、探求の始まりとなるきっかけです。 大切なもの:純粋な五感の働きはいつも真実と接してるということ。 「倶胝竪指」:分別がついてきた童子に対して一本の指を提示している。二本の指(=二元対立)ではない、ただ一つが真理そのものが提示される。誰が見ても見えているままの指がそこにある。目はあるがままを捉えている。  既におまえさんの「本来の自己=仏性」は提示された目の前の真実(=一本の指)を見ていますよ。何もしなくてもそのまんまの仏性が働いています。仏性が目の前のあるがままの真実を目撃していますよ。  二本(=分別、善悪等)に見えないし、見えている指には「指」という言葉が書かれていません。あるがままに見えているそのもの。見えている指には、善も悪も酸っぱいも苦いもなんでもないただの見えたまま。ただ眼前の「これ」でしかない。「指(ゆび)」という「言葉」さえ浮かんできてはいけない、いかなる概念を持ち込まずにただの「これ」。一切の分別を通さずに純粋で透明な心(=仏心)で見えている筈です。各自の記憶や経験と照らし合わせずに「これ」を見たままでいる。  何時でもどこでも差別・区別、観念に彩られていない純粋な「これ」で満ちています。誰が見ようとも一本の指、童子であるお前さんはなおのこと。大人びた観念で見ないで欲しい。純真なまま清浄なこころのままで・・・。  事実そのままで終わればいいものを、後から「評価」を下してしまいます。煩悩が抜け切らない限り、潜在意識(哺乳類脳・爬虫類脳)の裁判官が裁きを下します。現前の真理である「これ」を仏性がしかと見ているのに、「和尚の指だ」「真理はどこだ」「指を見て何が解る」「和尚は何がいいたいのだ」「指は指でしかないだろう」。解釈という思考を使えば仏性が隠れてしまいます。誰もが仏性で見ていたのに、そのままでいいのに。思考するクセによってどんどん仏性から離れて行ってしまう。  思いよりも行動が本当です。思いが本当だと言い張っても行動できなければ嘘であり妄想です。人は他人の思いなんてわかりません。人は他人の思いを感じるのではなく行動を見て感じます。  美辞麗句の「言葉」を投げかけても救われません。「行動」が人を救います。哲学しても、目の前のご飯を食べなければお腹いっぱいになれません。お腹いっぱいになれば哲学なんて吹っ飛んでいきます。  身体が真実を味わい真実を体験します。哲学でやってもちゃんと食べてるし寝なきゃなりません。身体の望む通りを生きているんです。いくら哲学しても脳という一つの臓器の中で電気信号と化学物質をやり取りしているだけです。何も作っていません、何も得ていません、何もありません。微弱な信号のオンオフ。  頭で身体を制御しているのではありません。身体が脳を作っています。  何も期待せず、何も願わずにただ坐る。身体が脳を従順にして、脳が清浄となっていきます。頭が主人ではなく身体が主人です。脳は身体の中の臓器の一つでしかありません。脳は身体のお世話になっている一つの臓器。もっと謙虚に身体に従いなさい。  身体は身体を維持したいだけ。身体は他人を傷つけたくはありません。身体は煩悩なんて持っていません。脳に煩悩があるので脳が命じて悪さをするのです。 <注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。 引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

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