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無分別 [気づき]

 物事を「相対」として見ることによって混乱・迷いを作り出しています。誰かが自らに向かって混乱・迷いを起こさせているわけではありません。事実は一つであって二つに別れていることはありません。見えているという事実があるだけで、見えている物に善や悪のレッテルが貼り付けられいることはありません。「神 kami」という形や音が善であり、「悪魔 akuma」という形や音が悪であるというのは日本人が勝手に定義しているだけにすぎません。

 眼が”あるがまま”を相対に見えることはありません。勝手に見えているままでしかありません。眼に分別が備わっていることはありません。耳・鼻・舌・身体は音・匂い・味・感覚をそのままに感受しているだけ分けて感受してはいません。相対としているのは意の働きによって二つに分けています。一つの事実をそのままに受け取っていれば、痛いは痛い・寒いは寒い・・・という事実だけです。望む状態になりたいという二項対立を起こし”何なとかしよう”と意が働くと葛藤が生じます。

 「隻手の音声」という公案では、考えている自分を観察することができます。見えている聞こえているという事実があって、その事実に触れています。答えのない問を考えることで自らを混乱に巻き込んでいます。考えることで何かを得たり何者かになるはずだと思い込んでいます。しかし、考えることは静寂をもたらすどころか混乱・葛藤を起こしているではありませんか。

 考え尽くしても静寂は訪れません。熟睡した翌朝の目覚めが清々しいというのは、思考の煩わしさから解き放された結果を享受できたからではないでしょうか。相対の思考から離れていれば”あるがまま”の事実と一体となっています。

 見ている自己や聞いている自己は、我々が考えによってあるとしている自己です。思いの対象となっている自己は対象であって「本来の自己」ではありません。対象とならない働きそのものが「本来の自己」ではないでしょうか。見ている自己として認識しているのですから、対象となっている見ている自己は思い描かれています。

 例えば気づかれている対象は自己ではありません。眼の前の”壁”は気づかれているので自己ではありません。気づかれる一切は対象とされるので「本来の自己」ではありません。考えていると気づかれていればその思考も自己ではありません。

 探しているということが気づかれていれば、探すこと自体は自己ではありません。「汝これ渠にあらず、渠正にこれ汝」(洞山良价禅師)自己探求のために彷徨い、水面に写っている自己。探求していると気づかれているので「本来の自己」ではなく、この探求に気づいている気づきこそが「本来の自己」。

 事実を事実のままでいられない。二項対立を持ち込んで迷いを起こしている張本人は、こうありたいとい事実に逆らっている習慣かもしれません。

 考えによって考えを鎮めることはできません。”何とかしよう”という考えに耳を貸さず放ったらかしにする(=無視)ことを続けていけば・・・・。”何とかしよう”とする声はだんだんと力を失っていくことになります。

 

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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