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当たり前 [気づき]

 私達は日々の生活の中で知らぬ間に二者択一のどちらかを選択する場面があり、それ以外は習慣化した行動があります。

 「有り難い」の反対は「当たり前」。私達は日々稀有な恩恵を受けています。恩恵が習慣化されてしまうと当然の事(=当たり前)となってしまいます。「有り難い」という感覚が減少して「当たり前」となり最後には何も感じなくなってしまいます。蛇口から水が出たりスイッチが入ると電灯が明るくなったり・・・・常に同じことが起こると驚きが無くなって当然のことのようになっています。台風・地震・火事・水害・・・によって当たり前の日常が奪われると、平凡な生活が「幸せ」に満ちていたと痛感するかもしれません。

 世間は様々な存在が因縁生起して様々な現象が起こっては消滅しています。自身の思い通りにはできない(諸法無我)のが世間です。

 

 異なる文化・言語・生活習慣・食事・環境・風景・経験・・で成長した人が同じであるわけがありません。一人一人が異なる自分だけの世界(=世界観)で生きています。全く同じものを見たり聞いたりしても(=インプット)全く同じ感想(=アウトプット)だとうことがあるでしょうか。唯一同じなのが分別以前の無分別の感受です。見えたまま聞こえたままに感受されている時点では、そこには分別する誰かはいません。感受して色々の思いが出てきてもいいのですが、良い・悪いという二元対立の念が起こって囚われて思いの通りにしようとしまう。人それぞれにバイアス(=偏り)があって、”我”の思いのとおりにしようとします。自身では気づかずに自らの固定観念に依存している(=依存症)かもしれません。自身の思いのとおりにしなければならないという感情がいつまでも収まらないかもしれません。

 アメリカで生まれ育ったスミスさんと日本で生まれ育った恵子さんとでは全く異なった世界(=世界観)で生きているのではないでしょうか。私達の本質は”空っぽ”なので、この空虚感を満たそうとしているかもしれません。

 

 諸行は無常であって変化しては消え去っています。”我”の思いの通りにはならない(=諸法無我)という答えが出ています。泡沫夢幻の中で満たされないと分かっていながら、”我”は何とかしたいとあがき続けているのではないでしょうか。天災・疫病・事故・老化・病気・・・何が起こるのかサッパリ分かりません。考えでどうにかできる世界に生きているわけではないのに、考えでなんとかしようとすることで”苦”となっています。肉体的な苦痛がなくなるわけではありません。現実・事実は気づいたときには消滅してしまっているので、思考でもとに戻すことはできません。しかし、”我”は”何とかしよう”とするので”苦”となっていることに気づかなければなりません。”我”には実体のないただの思いなので、何を思っても取り合わなければ消えていくしかありません。”何もしない”というのは考えるままにしておいて、取り合わない。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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