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老子-74 [老子]

民不畏死、柰何以死懼之。若使民常畏死、而爲奇者、吾得執而殺之、孰敢。常有司殺者殺。夫代司殺者殺、是代大匠斲。夫代大匠斲者、希有不傷其手矣。

 

 人民が死を畏れなければ、どうやって死で脅すことができるだろうか。もし人民が死を畏れていながら罪を犯すなら、私が罪人をとらえて殺すことができる。他の誰が殺すというのだろうか。常に人を殺すことを統制しているものがいる。人の死を統制している者に代わって殺すのは、自然の理に代わって手を下すことになる。自然の理に代わって殺す者は、自分の手を傷つけないことは稀なことだ。

 

<他の翻訳例>

 人民が死を恐れないとき、どうしてかれらを死をもっておどかすのか。人民がいつも死を恐れるのだとしても、そしてまた(私が)新奇なことをするものをとらえて殺すことができるとしても、だれがそんなことをするだろう。(それらのものを)いつも殺す役目のものがあって殺すのだ。殺す役目のものの代わりに殺すことはない。いわゆる偉大な工人に代わって木を削ることになる。ところで、偉大な工人の代わりに木を削るとき、自分の手を傷つけないものはまれである。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 ”我”の働きは解決・制御・統制・管理・・・したい。”我”は”自分かわいい”ですから、何でもかんでも”我”の思いの通りにしたい。”我”は自分のために、一生懸命におしゃべりし続けます。なんとかして思いを叶えたい。休むこと無く健気に働き続けます。”我”は自分の主人として自分の為に良いことをしている思っているので、自分を守るためなら人を傷つけることも厭いません。

 「正義の敵は正義」ということを書きました。正義の反対は悪なのですが、悪とされている方にも道理があります。悪とされている国にも道理があり、悪の国は自国の正義があります。敵対する国であっても、お互いに自国の正義を主張します。アメリカはアメリカの正義があり、中国には中国の正義があります。お互いに自国は正しく、他国は間違っていると主張していては平行線のままなのですが・・・・。

 ”神”という概念も同様です。自分達が信じている”神”の敵は悪魔ではなく、他の集団が信仰している”神”です。「神の敵は神」。お互いに”正しい・正規の・唯一の・・・・神”であると譲りません。自分達が信じている”神”が絶対的であれば、他の”神”は偽物であり否定されなければなりません。絶対的であるという概念で作っているので、他の”神”が存在することで”二つの絶対”が許されてはいけません。

 自分達が信じる”神”のためにやっているので、たとえ人を殺しても”神”のご加護があり”神”の望むことをかなえるために行動していると言い訳がたちます。勧善懲悪によって敵を滅ぼす正義の戦い(聖戦)となり、どんなに残虐であろうが悪いとは思っていないので平然とやってのけます。宗教戦争が残酷化するのは互いの”大義名分”によって正当化されるからに他ありません。

  争いの本質は、育てられた環境によって自分が形成されるということです。純真無垢な人間はどのようにも染められるということです。周囲の大人から、色々と染められて自己が形成されます。

 縁によって自分が存在しているということです。習慣・言語・文化・国が自己の本質となってしまいます。誰もが「自分が正しい」のですから、自分の基準で判断してしまいます。自分と異なり、受け入れることができなければ拒否することになります。エスカレートすれば、相手を屈服させて自分の言いなりにさせようとします。究極は戦って、排除することになってしまいます。

 

 ”我”も自分の身を守るために”正しい”ことをしているとして納得しています。”我”を通して苦しんでも”我”を押し通すことになります。どうしてこんなに”苦しむのか”と自問自答しても、”我”を否定することなく他人が悪いことにしてしまいます。

 ”我”がどんなに頑張っても、この世は諸行無常なので”我”の思いは必ず敗れ去ってしまいます。若くいたい、病気になりたくない、死にたくないと願ってもことごとく敗れ去ります。一時的なことと分かっていても快楽を求めて右往左往して、かえって疲れ果ててしまいます。愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦。”会う・別れ”・”得る・

失う”・”快楽・苦痛”・”愛・憎しみ”・”幸せ・不幸”・”若さ・老い”・”健康・病気”はコインの表裏であって一体です。無常ですからアッと言う間に反対側に変化してしまいます。

 ”我”は自分の為という”大義名分”があります。いままでの人生を冷静に観察して見ると、”我”を押し通すことによって混乱・葛藤が起こり、”苦”となっていないでしょうか。

 ”我”は残念ながら”本来の自己”ではないようです。”我”の思いの通りにはならないという”無我”に賛同するほかありません。

 どんな存在であっても、様々な因縁によって存在しています。一切の存在は恒常不変ではなく、常に変化変容していて留まることがない無常です。

 事象を二元対立として見ると、執着と忌避に分かれてしまいます。得よう捉えよう掴もうと避けよう排除しよう打ち負かそうと頑張ります。事象を考えで取り扱わずに無関心にしてみてはどうでしょうか。”我”の頑張りに耳を貸さないでいれば、”我”へのエネルギーは減少していきます。

 

 ヒトは生まれてから周りの人に必ずお世話になって育ちます。何歳になっても周りの人達のおかげで生きています。どうしても属している周りの人達に合わせていかないと生きていくことが難しくなります。生み育ててくれた家族・地域・学校・信仰・会社・国を非難したり否定することはできないものです。戦争自体が異常であったとしても、自国の主義主張が間違っていると言うことはできません。

 

 中国での戦国時代では、有る地域の人は自分達の地域の代表が富をもたらしてくれるのだからと信じて戦います。自分達は正しいことをしているのだから死を畏れることなく戦うことができます。戦う相手も自分達が正しいので、相手の兵士を殺すことは許されていると疑いません。人間の死は予測がつかないことから、死神のようなモノが決めているというふうに解釈していたかもしれません。決められた寿命に人が割って入って、敵を殺すことを正当化して殺してしまっていいのだろうか。手を下した人は良心の呵責に苛まれるということでしょうか。

 

我執:自分がいつまでもあり続けると思い込むことであり、自分は一人で生きていると思い込むことであり、なにもかも自分の思い通りになると思い込んでいることを表しています。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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