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荘子ー22 [荘子]

 およそ、道というものは、最初から限界のないもの、限定できないものである。ところが、これをいい表すことばというものは、対立差別のあいだを往来して、絶えずゆれ動くものである。このために、ことばによって表現されるものには、限界があり、対立差別があることになる。

 それでは、その対立差別の例をあげてみよう。左に対しては右があり、論に対しては議があり、分に対しては弁があり、競に対しては争がある。この八つの区別は、人間の性質にそなわったはたらきーいわば本能的なものである。

 このようにことばというものは、ものの真相をとらえることができない。だから宇宙の外のことについては、聖人はこれをそのままそっとしておくだけで、これについて論じようとはしない。

 また宇宙の内のことについては、聖人はいちおうは論ずるもののの、深く立ち入って議しようとはしない。「春秋」は世を治めるための書であり、先王が記録したものであるが、聖人はその内容について議するものの、是非善悪の判定をしようとはしない。

 道をむりに分析しようとするものは、必ず分析し尽すことのできない部分を残すものである。むりに弁別しようとするものは、弁別し尽すことのできない部分を残すものである。それは、どのような場合をさしていうのであるか。

 聖人は道をそのまま自分の身に抱こうとするのに対して、俗人は道を分析して論ずることにより、これを他人に誇示しようとするものである。だから、私はいおう。「いかに細かく分析して論じようとも、他人に真理をあますところなく示すことは不可能である」と。

「引用:世界の名著 老子・荘子 中央公論社 P189」斉物論

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 言葉はコミュニケーションの道具であり、指示や情報共有や問題解決のために使われているようです。初歩的なプログラム言語は、機械に指示命令を書き込んでおいて状況に応じて順次遂行するようになっています。今のプログラム言語は学習したり予測したり問題を事前に発見したりする知能を身につけています。高速処理であり恣意を介入させず、あらゆる分野で人間を凌駕していくようです。

 生命の本能は安全・安心でいたい。安定した生活を維持し危険を回避し、できるだけ健康のままで生きていたい。願わくばユートピアで永遠に生きたいと願っている宗教もあります。  誰かに、死んだ人はどこに行くと聞くと一様に天国へ行きましたと言います。殆ど全員が天国へ行くのなら、天国もこの世も変わらないのかもしれません。何を想像しても、新たな概念で色々な世界を創造することもじゆうです。想像力は人間だけができる素晴らしい能力です。六道も作ることができるし信じることも自由です。天国という概念が作れるのなら地獄という概念が生まれるのは必然のことです。存在の確認がなくても頭のイメージですから何でも作り出せます。


<自問自答>

 宇宙は偽りなのかそれとも真理なのでしょうか。

 宇宙物質から作られ、宇宙に属している我々は偽りでしょうか。

 存在が真理ならば、真理を見ないでいることができるでしょうか。

 真理の中にいて真理を見ているというのに真理を知らないと言えるでしょうか。

 同じ空間に生きているのに聖者だけが真理を知っていて、聖者だけが救われていると言えるのでしょうか。

 聖者以外の人はどうやって真理(=宇宙)から分離して生きていけるのでしょうか。

 聖者は最初から聖者でなければ、どの瞬間に真理と一体になるのでしょうか。脱皮する?

 聖者がもし何かを掴んだり何かを得たとしたら、それは一体どこにあるのでしょうか。

 聖者が何も掴んだり得たりしなければ、我々が掴んだり得たりしようとしているだけでしょうか。

 当たり前の四苦八苦を当たり前と受け取れないことが苦悩・葛藤でしょうか。

 苦悩・葛藤がないということは、意味のないことをあえて思考しないとおなじことでしょうか。

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 本来「一つ」であり感覚や感情は自然に消えていくだけ。感覚や感情を「言葉」に変換して存在させ続けているようです。「言葉」を扱う何かが存在しているに違いない。その何かとして存在しているのが、社会的な「私」かもしれません。社会的な「私」は、自らが思考することによって全体から分離した何かとして存在させています。  思考もただ生じては消え去っているだけなのに、入力された感覚は自動的に「言葉」に変換されて記憶・記録できます。ただのイメージなのに実在のように扱っているようです。記憶や記録が消えてしまえば感覚や感情のように消え去っていると解るのですが・・・。

幼児の頃の記憶が無ければ幼児としての存在は無いに等しいのではないでしょうか。実際に幼児ではないので、過去など存在していません。ただの思い出(=記憶)であって実体はありません。

 自らを一なる真理からわざわざ分離して、真理を分割・分析しすることで知ろうとしています。一つから離れることが智慧でしょうか。言葉を駆使して分析することは、興味が尽きることがなく面白いものです。

 我々が行き着かなければならない終点は、何も問題の無い地点。元から分離していない「一つ」であり、わざわざ問題を作って遊んでいることが問題かもしれません。禅の公案は頭で考え、その公案を解く(=何も問題はない)。公案の意味がないと解ることが答えかもしれません。誰(=自分)がどこから来たかを考えても意味はありません。(始祖西来意)生きていて問題があることが問題です。

 知る意味もなく問題とする意味も無かったということを本当に理解します。答えが解ろうが解るまいが、呼吸して食べて排出して寝て、行住坐臥しているのが人間だということかもしれません。どんなに頭で悩もうが小石一つ動かすことはできません。考えただけでは何もでず、実際に小石をつまんで動かすしかありません。作務をしなければ綺麗に保つことはできません。

 「老病死」から解放される人などいません。「苦」と思わずに当たり前の事であり理にかなったこととして気にしないでいるしかありません。

 哲学や宗教や真理を説明する書物を読み漁っても切りがありません。細かく切り刻んだものをくっつけても「一つ」にはならないようです。

 即効性のない科学知識の探求にお金をつぎ込むことよりも、今住んでいる地球の温暖化を食い止める研究や活動のほうが優先されるべきかもしれません。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。 引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。> 

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