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荘子−20 [荘子]

今私がここで何事かを言ったとする。そのとき、そのことばは、いおうとしている事実に接近しているであろうか。それとも接近していないであろうか。接近しているといっても、接近していないといっても、①正確に事実を表現していないという点からいえば、結局似たようなものである。とするならば、はじめから何もいわなかったのと変わりがないということになる。

 だが、ものはためしだから、いちおういってみることにしよう。万物には、その「はじめ」があるはずである。「はじめ」があるとするならば、さらにその前の「まだはじめがなかった時」があるはずである。さらにはその「『はじめがなかった時』がなかった時」があるはずである。

 また、有があるからには、まだ有がなかった状態、すなわち無があるはずである。さらにその前に「まだ無がなかった状態」があるはずである。さらにはその「『まだ無がなかった状態』がなかった状態」があるはずである。  このようにして、ことばにたよって有無の根源をたずねようとすると、それははてしなく続き、②結局その根源をつきとめることはできない。

 それにもかかわらず、われわれはか確実な根源を知らないままに、いきなり有とか無ということを口にするのである。③このような不確実な有無のとらえ方では、その有無の、どちらが有で、どちらが無であるか、わかったものではない。

 ④ところで、いま私は、このようなわけのわからないことをいった。それというのも、ことばというものが物事の確実な根源をとらえることができないためである。とするならば、私がいったという事実も、はたしてあるのかそれともないのか、わかったものではない。

「引用:世界の名著 老子・荘子 中央公論社 P186 」斉物論

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①言葉はただの概念でありイメージでしかないので、各人の頭の中にあるイメージと照合して思い描くことも異なっているようです。

「山 yama」と発音しても、日々見慣れている「山」を思い浮かべるのではないでしょうか。各人の育った環境によって異なります。日本人なら「富士山」かもしれないし、フランス人なら「モンブラン」を思い描くまも知れません。「yama」という発音を初めて聞く外国人にとってはチンプンカンプンで何を言っているのか意味不明でありイメージも出てきません。

 事実を認識するには、お互いが同時に体験する他ないかもしれません。サングラスをしていたり感覚器官が正常に働いていなければ異なった認識になります。言葉を使って多くの表現で表現しても事実が伝わらなければ、言わないと同じことかもしれません。

②言葉では、有無の根源をつきとめられないと言っています。目の前にある一切の存在の根源は分からずじまいという結論です。存在していることは確認できますが、我々はただ存在と共に生きていくだけでです。存在の根源を知るよりは、存在にどのような働きがあるかを知ることのほうが有益なのは明らかです。

③存在の有無は、認識する人がいなければ存在として認められません。裸眼で見ることができないウィルスや素粒子は有ると信じているだけかもしれません。イグアスの滝は、ここ日本にいて目の前で見ることができないので存在していると断言できません。見えている存在が有ると確信できるのは認識している自分自身だけでかもしれません。

 電話口の相手が手に持っている存在さえ不明であって有無を断定することはできません。

④言葉では、物事の根源を捉えることができないといっています。我々が言葉を使うのは思考やコミュニケーションのためです。言葉がいい加減なのですから、思考によって根源を捉えられないというのはもっともなことです。


 一生懸命に思考して悩んでいることも、実は訳のわからないマヤカシの世界(=イメージの世界)の中で行なっていることかもしれません。我々人間は様々な「音」を出しているだけ。他の動物から見れば、得体の知れない生き物が止めどなく口を動かしているだけかもしれません。

 文字を読んで捉えていることは、自身と同意見の内容だけであることに気づくと思います。分かったと思っていることはすでに自身の中にある観念かもしれません。異なる意見はスルーして同調することだけを受け取っているかもしれません。

 つまり、自身の思いをその文章の中に見出しているのであって、他人の文章ではなくすでに自身のいいように文章を受け取っています。

 書かれている文章は文章を書いた人の意見ではなく、読んだ人が解釈して読んだ人の意見となっています。発信者(=表現者)のものではなく、受信者(=読者)のものとなっています。書いた人が決めているのではなく読んでいる人が決めていることになります。

 風景や鳥の鳴き声なども、見ている人や聞いている人がいることで存在しています。各認識体によって解釈は異なるようです。発しているのは一つですが、受け取る数だけ解釈が在るということかも知れません。つまり真実は幾つもあるし、幾つもあってもいいということかもしれません。自分だけの真実を言い合っているのがこの世界なのかもしれません。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。 引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。> 

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