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荘子ー14 [荘子]

 心を労して、むりにすべてを一つにしようと努力し、実はすべてが自然のままに一つであることを知らないもの、これを朝三という。それでは朝三とは何か。

 こういう話がある。あるとき、猿回しの親方が猿どもに栃の実を分配しようとして、「朝に三つ、暮れに四つでは、どうか」と相談した。すると猿どもははらをたてて「それでは少なすぎる」といった。そこで親方が「それなら朝に四つ、暮れに三つでは、どうかね」といったところ、猿どもは大喜びをしたという。名実ともに何の変わりもないのに喜怒の情がはたらくのは、自分自身のあさはかな是非の心に従うからである。

 だから聖人は、是非の対立を和合させて、差別の人為がない自然の境地ー天鈞(てんきん)に安住するのである。別のことばでいえば、是も非もそのままに是認して、両者をそのままに行かせることーこれを両行(りょうこう)というのである。 天鈞:自然のままに、すべてをひとしいとする境地。 両行:是非のいずれかを取捨選択することなく、両者をそのままに放任する。


「引用:世界の名著 老子・荘子 中央公論社 P182 」斉物論

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 心を労して、むりにすべてを一つにしようと努力し、実はすべてが自然のままに一つであることを知らないもの、これを朝三という。それでは朝三とは何か。


 自然に働くままの社会的な「私」で世界を観察しています。社会的な「私」は、矛盾を含み曖昧な言葉を使って思考しています。「美」という言葉は単なる言葉であって「美」という文字や「bi・ビ」という音が美しいのではありません。「豊か」という言葉を何回唱えても実際に「豊か」になるわけではありません。真言を何かを叶えるために使うのは社会的な「私」に従っているだけで万物斉同から離れていくようです。無駄な思考から離れるためにこそ真言を使い、万物斉同であるとの見抜きを促すようにしたほうがいいかもしれません。

 二元対立が前提となっている社会的な「私」の観点では、世界は一つであるとの思い込みだけで終わってしまうようです。言葉以前(=定義以前の分離のない世界)の区別・差別のない「一つ」を見抜くことができないようです。言葉は物事や事象を分離・分割して切り刻んで分析するために使われているようです。この言葉によって分離される以前の一なるものをつかもうとすることは不可能のようです。顕微鏡で地球全体を見ようとしても見れるものではありません。地球全体(=分割されていない全体)を見たいのなら俯瞰した視点で見る他ありません。google earthでどんどん上昇するような視点です。水平的な視点から一旦離れて、垂直的な視点で全体を見る他ありません。


 思考で思考を鎮めようとしてもてきません。食べれば食べるほど痩せると一生懸命やっていようなものではないでしょうか。 朝三(=決めつけ)だけを見て、全体が一つであることを見ることができないようです。

 自らの観念の一つである「非(=朝三=朝は三つだけでは不足)」とすれば、他の案が「是(=朝四)」となる可能性があります。合計の七つは何ら変わりがないということに気づきません。自身の思い込みが「是」であって他は「非」として決めつけています。社会的な「私」は状況や時代や場所によって「常識」や「正義」が異なります。  自分が「赤」と認識しているのに、自分以外の全員が「青」と認識していれば「青」です。常識は多数決であって正しいというのは状況によってどうにでもなるものだと言えるのではないでしょうか。

 戦時の最中に「平和」を訴え「全面降伏せよ」と言う人がいたらどうでしょう。平和な時に「戦争」して土地を奪いかえしましょうという人がいたらどうでしょう。

 戦争中では、相手を殺した打ち負かすというのが「常識・正義」となっているようです。全員が異常でも、異常が全員なので異常な人が正常と見なされます。「戦争=常識」であって「平和=異常」となります。

 実は現在の我々は異常のど真ん中に既にいるかも知れません。プラスチックゴミの海洋汚染・海洋資源の消滅・原発の廃炉・汚染水・森林火災・経済戦争・温暖化等の喫緊の問題があるにもかかわらず、防衛費や天体望遠鏡や宇宙開発や数千億円もの素粒子の実験装置などに優秀な人の頭脳と時間とお金を費やしていいるか、費やそうとしているようです。宇宙空間でも戦争を起こそうとしています。宇宙戦争の戦禍のゴミはどこに降り注ぐのでしょうか。何年か後に、なすべき事を後回しにした愚かな未開人と歴史に刻まれているかもしれません。

 ある国で「聖者」と言われている人は社会的な「私」はもう用がなく社会からドロップアウトして「本来の自己」だけで生きていこうと決めた人かも知れません。社会生活している人から見れば、何もしないで世話をしてもらい講釈しているだけ。社会生活している人から見れば社会に適応できない人引きこもっている人とあまり相違がない。探求している人以外には役に立っていない人かもしれません。

 探求を主として僧院で社会からお世話になっている人から見れば、獲得ゲームをやるよりは探求ゲームの方が価値があると思っているかも知れません。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。 引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

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