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荘子ー11 [荘子]

 さて、ことばというものは、口から吹き出す単なる音ではない。ことばを口から出すものは、何事かを言おうとするのである。ただ、その言おうとする内容が、人によって異なり、一定しないところに問題がある。

<略>

 それでは、道は何におおいかくされて、真と偽の区別を生ずるのであろうか。ことばは何におおいかくされて、是と非の対立を生ずるのであろうか。もともと道というものは、どこまで行っても存在しないところはなく、ことばというものは、どこにあっても妥当するはずのものである。それが、そうでなくなるのはなぜか。ほかでもない。  道は小さな成功を求める心によってかくされ、ことばは栄誉とはなやかさを求める議論のうちにかくされてしまうのである。  だからこそ、そこに儒家と墨家との、是非の対立が生まれれる。こうして相手の非とするところを是としたり、相手の是とするところを非としたりするようになる。もしほんとうに、相手の非とするところを是とし、相手の是とするところを非としようと思えば、是非の対立を越えた、明らかな知恵をもって照らすのが第一である。

「引用:世界の名著 老子・荘子 中央公論社 P176 」斉物論

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 道は小さな成功を求める心によってかくされ、ことばは栄誉とはなやかさを求める議論のうちにかくされてしまうのである。  道は言葉で表現できるようなものではないようです。何時でも(=永遠)どこでも(=無限)道が存在しないことはないようです。言葉や文字は人間の最高の発明だと思われます。実体がないのに、概念やイメージを結合することで現実化する手助けになっているようです。

 私たちは定義づけされただけで本当は実体などないただの「私=アイデンティティ」を第一としているようです。コロコロ変わり実体のない「私」と実体のない言葉を操って(=振り回されて?)生きているようです。「あるがまま」がある(=認識している)ようでない(=刻々と変化し常住でない)ものであり「瞬間の生滅」の繰り返しとしてあるにもかかわらず、掴んだり得たりできるという前提で生きています。

 「思いの世界=こうあってほしい」と「あるがまま=生滅の世界」との間に「葛藤(=思いと現実の差)」があります。この「葛藤」を思考(=言葉=実体がない)を使って解決できると脳が諦めません。脳は言葉を使って答えを出そうと際限なくチャレンジしているのが実際のようです。

 答え出し(=概念で掴む)ゲームを終わらせない限り、回し車の中にいるモルモット、飽きることなく空気切りしている子供と大差がないかもしれません。

「人間こそ笑いかつ泣くところの唯一の動物である。つまり人間こそあるがままの事実と、あるべきはずの事実との相違に心をうたれる唯一の動物であるからだ」ハズリット  既に道の真っ只中にいて道からはずれることなどできまぜん。道から外れた自分など存在しませんが、あえて道から外れた自分を設定することで探求できます。探求ゲームは自作自演するしかありません。心ゆくまでゲームを楽しむことも道の中で受け入れられています。探求ゲームもあり人生ゲームもありです。ゲームに優劣や是非などあるでしょうか。ゲームオーバーになったら、どこに落ち着くのでしょうか。普段の何気ない生活以外に何かあればいいのですが・・。何かの導きなのか新たな幻想が続いているのか、教団を作った人がいたようですが・・。

 社会生活での「私=アイデンティティ」が主でありアイデンティティを確固(=たよりにしていたい)たるものにしようと奮闘しているようです。自我は実体がないにもかかわらず、実体があるように振る舞いたいのです。そのためには「私」として存在するために考え(=我=思考)続けなくてはなりません。物質が存在しているように見えるには、素粒子や原子や電子が高速回転によるのに似ているようです。

 この探求ゲームの自我に実体がないことを見抜くのに、坐禅や公案というものがあるのではないでしょうか。公案で導かれる答えらしいものには実社会での問題を解決してくれる「諦め」の答えがあるようです。この答えは思考の無意味さを見抜いてくれます。

 また、思考し尽して答えらしいものはないのだと、思考そのものの無意味さを見抜くものがあると思われます。思考で何でも解決できると思っていた自身の愚かさに笑うことになります。何で悩んでいたかというと思考して(=現実と思考のギャップ)悩んでいたのですから、思考する事自体に意味がないという見抜きで悩みがなくなるのは当然の結果のようです。


 私たちはどうでも良いことでも知りたいという脳の癖がついてしまっているようです。もし自我によってはげしい「葛藤=苦悩」がおさまらないというのなら、自我(=思考したい・知りたい・記憶していた)が存続しているという基盤(=思考しているという私がある)が嘘(=妄想・マヤカシ)であると見抜くしかありません。

 坐禅は身体が固定されていて何もしていない状況を強制的に作られます。何もしていないのに、思考があるというのは思考が勝手に浮かび上がっている事実を観ることになります。あってはならない思考(=身体は何もしていない)があるというのは、坐っている時の思考はすべて偽りであるとだれでも見抜けることになります。

 坐っていることだけ事実であるのに、事実(=なにも行動していないで坐っている)以外の思考は夢と同じで幻想なんだということの見抜き。眠っているときは身体は何もしていません。身体が何もしていない時にイメージにあるものはただの夢(=幻想)ということになります。

 坐禅中に足が痛いという感覚は事実ですが、痛い以外の楽になりたいとか仕事のことや家庭のことを考えていることは全部作りごとであると見抜けます。今ある事実からかけ離れた勝手な希望や期待を扱っているということです。考えるのは当たり前と思っていますが、只ここに坐っている事実とはかけ離れているんだということ。

 何年坐わろうが、何分坐わろうがそこに差があるでしょうか。思考が勝手に湧いてくる嘘(=事実でないただの思い)だと見抜けばそれで終わりです。只今の事実とかけ離れた思考が出てきたら「思考さんご苦労様」と慈しんで見てあげればいいのではないでしょうか。  それでも思考がおさまらなければ、呼吸に注視して呼吸と共に「吸っている」「吐いている」と何回かしているうちに綺麗サッパリどこかに消えています。また、真言の「どうでもいいですよ」「関係ない」も思考を断ち切るのに有効かもしれません。

「われわれは自分で考えているほど幸福でもなければ不幸でもない」ラ・ロシュフーコオ


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。 引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

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