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荘子−10 [荘子]

 ①さて、ことばというものは、口から吹き出す単なる音ではない。ことばを口から出すものは、何事かを言おうとするのである。ただ、②その言おうとする内容が、人によって異なり、一定しないところに問題がある。 もしことばの内容が一定しないままに発言したとすれば、その言ったことが、はたして言ったことになるか、それとも何も言わなかったことになるか、わかったものではない。

 ③たとえ自分では単なる雛鳥(ひなどり)のさえずりとはちがうと思っていても、はたして区別がつくかつかないか、あやしいものである。

 それでは、道は何におおいかくされて、真と偽の区別を生ずるのであろうか。ことばは何におおいかくされて、是と非の対立を生ずるのであろうか。もともと道というものは、どこまで行っても存在しないところはなく、ことばというものは、どこにあっても妥当するはずのものである。それが、そうでなくなるのはなぜか。ほかでもない。

 道は小さな成功を求める心によってかくされ、ことばは栄誉とはなやかさを求める議論のうちにかくされてしまうのである。

 だからこそ、そこに儒家と墨家との、是非の対立が生まれれる。こうして相手の非とするところを是としたり、相手の是とするところを非としたりするようになる。もしほんとうに、相手の非とするところを是とし、相手の是とするところを非としようと思えば、是非の対立を越えた、明らかな知恵をもって照らすのが第一である。

「引用:世界の名著 老子・荘子 中央公論社 P176 」斉物論

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③たとえ自分では単なる雛鳥(ひなどり)のさえずりとはちがうと思っていても、はたして区別がつくかつかないか、あやしいものである。

 誰かが表現(=出力)したものは、その時点(=出力・表現)で表現者の手を離れ表現者のものから公共のものとなるようです。天賦の才能が努力によって開花されますが、環境や支援があるからこそであり自力では無理であると誰でも認識していることと思われます。公共の助けがあり、世間が受け入れてくれるからです。価値があると思われればそれなりの対価を受け取ることができます。

 表現を受け取ってくれる人がいなければ、雛鳥のさえずりと区別がつかないかもしれません。ただ勝手に一人で騒いでいるだけです。

 この文章を読まれている時は、この文章の所有者は「あなた」であり自由に扱うことができています。  受け取る人が表現者を生み育てていると言ってもあながち間違いではないようです。

 表現者(=個々の存在)が主役ではなく世界(=一切の存在)が受容体(=主役)であると、観点を変換する必要があるかもしれません。我々は世界から受け入れられている客体であり、世界が無条件に受け取ってくれる主体と見てもいいのではないでしょうか。表現している時は主体ではなく見られている客体、開かれた存在(=受容)は客体ではなく無条件に受け入れる主体であると。

 受容があるからこそ表現が許されています。表現者が表現したものを受容者(=存在)が拒否(=無視)するなら、表現されたものはだれのものでしょうか。表現されたものは表現者自身が処理しなければなりません。悪意を持った言葉を投げかければ相手にされず、天に唾を吐くように自身に戻ってくることになります。

 「私=アイデンティティ」のない透明で境界のない空っぽである存在(=本来の自己)は、無制限・無自覚・無条件で「あるがまま」全てを受け入れています。何よりも先立つ意識が自動的に働いています。毎朝、瞼を開くと見ようとせずとも見えることに驚きます。


 当たり前のように眠って、当たり前のように目が覚めます。全てを任せきって、目が覚めれば見えたり聞こえたり最初に受容が起こっています。日々奇跡的な出来事で始まっているのに、記憶や脳の癖である「当たり前」が驚きをだんだんと減少させているようです。

 意識(=本来の自己)は、誰にも教わることなくあらゆる命に備わっていて勝手に働き続けています。修行して「本来の自己=すでにある意識」が高次になったり変化することなどあるでしょうか。この自然の受容(=意識)こそが「愛」かもしれません。あらゆる生命にくまなく与えられている受容性こそ「愛」そのもの。

 与える以前に自動的に存在へ受容(=認識、意識)されていますが、受容体の中で分別する「私=我=固定観念」によって拒否されることもあります。全ては拒否されず、必ず一旦は受容されているということを分からなければなりません。

 「本来の自己」を見つけなくても、常に「本来の自己」が働いていて全てを受け入れているという事実を認めること。穢れたものや忌み嫌うことも自動的に受け入れているという事実があります。見なければよかった、聞かなければよかったと思う以前にすでに見ているし聞いています。我々はすでに「それ」であり、「それ」から離れた何かではないということ。

 「愛」と思って(=勝手な思い込み)与えたのに拒否され、「愛」という思いから「憎しみ」に変わることもあります。  一切の存在は必然的に受容という「愛」の働きをもって現れているのではないでしょうか。「愛」は探さなくても存在するもの全てに予めそなわっているようです。五感による感受(=受容=愛)を拒否することはできません。見たくなくても目が開いていれば見ないでいられません。

 「本来の自己」=「愛=受容」そのものとして機能しています。社会生活で使われている「私=アイデンティティ」は表現(=出力)に主眼があり、本来そなわっているもの(=受容性=愛)を見逃しているかもしれません。 <まとめ>

1.誰かが表現したものは、受け取った人のものであり受け取った人の自由といえるかもしれません。

2.誰もが持ち合わせている比類のない才能が「受容=意識」であるかもしれません。

3.個性を伸ばすにも、公共の支援が必須であることを否定できません。表現者の成果物も公共物かもしれません。

4.命あるものは、常に開かれていて境界がなくあらゆるものが自然に受容(=愛)されます。

5.あらゆる存在が受容(=愛)であれば、世界は「愛」そのものと言えるかも知れません。

6.一旦は無条件に受容されますが、「我=固定観念」によって曲げられたりレッテルを貼られたりします。

7.「本来の自己」は、すでに「それ」であって「私=我=分別=思考」が手を加えたり教わったり修行したりして得たり掴んだり達成するものでしょうか。発見しても一部であり一瞬であり、その一部や一瞬を表現できるでしょうか。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。 引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

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