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荘子−3 [荘子]

  このことを自分の身体についてためしてみよう。

 私の身には、百の骨節、九つの穴、六つの内蔵がすべてそろっている。私には、いずれかの部分を特に親しみ愛するということはない。君はこれらを一様に愛するのか、それとも特定のものだけを愛しようとするのか。おそらく私と同じであろう。①とするならば、身体のどの部分も、ひとしい価値をもつことがわかる。

 もし、同じ価値をもつとすれば、身体の各部分は、ひとしく召使いの身分にあるということになるであろうか。②もし召使いばかりだとすれば、命令するものがなくなり、統一がとれなくなるのではないか。それとも、身体の各部分が、交替に君主となり、臣下となるとでもいうのであろうか。

 そうではなくて、やはり③真の君主、真の主宰者が存在するのではあるまいか。そのありかを求めて得られるか得られないかは、その真宰が存在するという事実とは無関係である。

「引用:世界の名著 老子・荘子 中央公論社 P172 下段」斉物論

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①身体のどの部分も、ひとしい価値をもつことがわかる。

 単細胞から徐々に進化して、口(=入力)と排泄口(=出力)からなる一本の管(=処理機能)ができていきました。さらに、管(=処理機能)から様々な専門臓器が作られ精密化・複雑化して分業するようになってきたようです。元来は一つの管から様々に分化したものです。まったく同じものであり優劣はつけられないのは自明のことと思われます。

 それぞれの細胞によって全体となり、全体がそれぞれの細胞と協調して全体として存在しています。

②召使いばかりだとすれば、命令するものがなくなり、統一がとれなくなるのではないか。それとも、身体の各部分が、交替に君主となり、臣下となるとでもいうのであろうか。

 身体のあらゆる部分に優劣がなく働いているということであれば、各部分が特別な主導者となっていません。それゆえ、召使いという表現かもしれません。

 食事をする時に、手が口に食べなさいと命令し、口が食道に胃に送り胃に消化せよと命令し、胃は腸にや膵臓にインスリンを分泌せよと命令し・・・・。  

身体の各部分が君主と臣下になっているわけではなく、各々の役割を逐一効率的に遂行されているようです。各臓器が情報伝達物質を出し合って食物からエネルギーを取り出し、身体にエネルギーを行き渡らせて生命活動を維持している。  

 体内での物質の分泌と神経経路を通しての電気信号のやり取りで全体が統制されているようです。

 もし各部分や各細胞を統率する「私」が存在するのなら、病気になる前に司令を出して未然に防ぐでしょう。そんな都合の良い「私」は存在しないので、病気や老化という現象は避けることができないようです。 ③真の君主、真の主宰者が存在するのではあるまいか。  身体の各部分に統率者など存在せずに、身体が勝手に動いているという事実を観察します。何らかの力(=宇宙、道、自然、意識、・・・)によって身体が動かされているというほかありません。

「私」が逐一指示命令しているでしょうか。消化せよとか、便の硬さを指示したり、血圧を指示したり、血液中のコントロールをコントロールすることもできません。

 ただ動いた後に「私」をあとづけして「私」が動かしたとしているようです。

 人間として生まれたからには、統率者の所在を知りたいところですが、「それ」の一部である我々は既に「それ」であって、「それ」から離れることができません。

 離れて見ることができなければ「それ」を知ることはできません。雲は雲の形を知ることはできません。身体の部分が身体全体を知ることはできません。海の一部である海水が海全体を知ることはできません。目は目を見ることができません。自身で自身の顔を直視できません。見ている主体と思っている限り、見えているものは客体となっています。

 見ている者と見られるものが異なるものでない斉同(=等価)であるというのが荘子の説いているところではないでしょうか。

 熟睡している自身を知ることはできませんが、確かに眠っています。知ることはできませんが既に熟睡を経験しているという事実があります。  既に「それ」であるものが「それ」にはなれません。一度自らが凡夫にならなければ「仏」になるという物語を紡げません。日本人の両親から生まれ日本語の読み書きができれば「日本人」です。日本語で「私は日本人ではない」と言い張っても誰も同意してくれません。「猫」は「猫」になれません。「仏」は「仏」にはなれません。

   自らを「仏」であると他言することは、「頭がおかしい」と言われるのが落ちですが、言葉にすることなく「仏」であると認識することはなんでもありません。白隠禅師も「衆生本来仏なり」と認めています。あまりにも脳の癖や誤解が強く、抜け出すことができないのを見て言葉にしたかもしれません。

 袈裟を着てお経を唱える人だけが、「仏」になる切符を持っているのでしょうか。聖なる経典を読まなければ救われないのなら、子供は救われていないことになるのでしょうか。文字が読めて聖なる言葉を理解する人だけが救われるのでしょうか。聖なる経典が無かった以前に生まれた人たちは救われようがない人たちでしょうか。

 事実として宇宙(=真理)で生まれ、宇宙(=真理)で生きています。宇宙がマヤカシであれば我々もマヤカシです。特別な誰かだけが「仏」に変身できる蛹(さなぎ)として生まれているのでしょうか。真言や瞑想をすると、その蛹が脱皮して「仏」に変身するのでしょうか。

 宇宙には何でもあるようです。灼熱の世界、絶対零度の世界、無機質の世界、暗闇の世界・・。 もがき苦しんでいる「仏」、怯え苦しんでいる「仏」、怒り狂う「仏」、遊ぶ「仏」、笑う「仏」、石でできた「仏」、一重瞼の「仏」、立った「仏」、年老いた「仏」、生まれたばかりの「仏」、・・・。何でも無いから何でもある、何にでもなれる。あらゆる表現が許されている。何でも既に救われている。 


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。 引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

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いろ葉

難しい事は解かりませんが…
例えば「花」一つにしても四季折々にカラフルな色で私達の目を心を楽しませてくれます。
私達人間が「ただ生きるだけ」ならモノクロの世界でも生きていける筈です。
こんなに無数のカラフルな花々が咲くことは、何か「大きな力や存在」が有って、人間に「生きる事を楽しみなさい」と教えているようにいつも感じます。
ブログの内容と噛み合わないコメントかも知れませんね。
だったらごめんなさい。
by いろ葉 (2019-08-09 18:30) 

平凡な生活者

 誰もがまったく同じ意識であり、私もあなたもないかもしれません。表面上は別々の現れとして認識されますが、エネルギーや意識は異なるところがなく一体なのかも知れません。
 無数の花々も存在も現れの一つであり同じ意識(=自身)が、同じ意識の他の現れ(=無数の花々)を見ている。見るものも見られるものも深いところは同じですから、見るものは見られるものかもしれません。自身(=同じ意識)が他の現れ(=同じ意識)をお互いに見合って感心しているのが現実かもしれません。
by 平凡な生活者 (2019-09-07 11:55) 

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