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無明ー18 [無明]

・我々の身体の中に「わたし」は見つかるのでしょうか。

 自身の身体や他人の身体から「わたし」という「何か」が出入りした瞬間を知覚でき人がいるでしょうか。「わたし」というものが一体どこに、どんな風に鎮座して、どのように働いているのでしょうか?

 今探し出そうとしているその「わたし」は、自身の体温を調節したり、血液を巡らせたり呼吸をするように司令をだして身体を常に監視しているのでしょうか。体中を隈なく監視しながら、外部の情報を関知したりキョロキョロ辺りを見回したり、気ままに動き回っているようです。「わたし」なのに管理したりコントロールしようとする「わたし」が別にいるようです。その「わたし」を見ている何かの存在に気づいている「何か」を感じている存在も感じられます。


 不変の「こころ」があり固定したままであれば成長できません。こどものままの「こころ」では社会に対応して生活ができません。様々な状況に対応していく「こころ」で生きています。生滅変化して、生じてはかならず消えている。「こころ」はとらえようのない実体のないものです。あるようでないものなので自由自在に使えるということです。


---- <実証体験>

 我々が見知らぬところ(=外国や惑星でもありです)に一人でポツンと佇んでみます。実際に散歩してみて体験するのがいいかと思います。

 誰もいないところであれば、目にするあらゆるものは未知であり何も知りません。同様にあなたを見ているあらゆる存在にとってあなたはまったく知られていない「何でもないもの」でしかありません。特に動物や虫はあなたを記憶すべき対象としていないし記憶する能力も無いかもしれません。また、ほんの一瞬の出来事ですので意にかいすこともありません。

 あなたも別に記憶するために来たわけでもなくただ状況を眺め、普段の脳の働きにまかせて(危険かどうかに注意して)歩いています。ですから、見たり聞こえたり感じたりしていることは「何でもないこと」です。

 自身からすると、「何でもないこと」をに出会ってきて戻ってきた。散歩の途中であなたを目撃した(=知覚した)ものや触れられたもの一切もあなたを「何でもないもの」としています。

 ここが重要です、私たちが電車に乗って誰かを目撃(=認知、視界に入っている)しても知り合いでもなければ「何でもないもの」でしかありません。他人もあなたを目撃(=認知、視界に入っている)しても「何でもないもの」なのです。

 我々(=主体)という「何でもないものが」、目撃される対象(=客体)である「何でもないもの」と出会っています。あなたを目撃(=主体)している「何でもないもの」が、あなた(=対象、客体)という「何でもないもの」を目撃(=認知、視界に入っている)していました。


 例えば家族や知人であっても、あなたのアイデンティティを知っているだけで、コロコロ変わる内面を知る術はありません(=知っていたら恐ろしい)。今のままでOKなのですから常に知りえない未知なる「何でもないもの」です。お互いにある程度知っていても表面的なことで、それ以外は「何でもないもの」と言っても過言ではないと思います。

 この文章を打ち込んでいる者も「何でもないもの」であり、この文章に目を通している方もサッパリ知覚できない「何でもないもの」であると感じられるでしょうか。

 「何でもないもの=空っぽ」が「何でもないもの=空っぽ」と出会っている。すべてが「空っぽ=空」ですが、実体は実体としてあり感覚は感覚としてあります。有るようでない、無いようであります。

 一切は「何でもない」から「何ででもある」ことができるかものしれません。一切は、すでに自由で解放されていると感じとり。すべてがお互いに区別・差別のない「あるがまま」を「あるがまま」にお互いに目撃しているということを見抜く。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。 引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

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