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無明ー11 [無明]

 我々の脳は、問題に対処するために自分自身の経験や記憶にもとづいて脳内にプログラムを自動的に生成しているようです。この一連の過程で好き嫌いや固定観念がプログラム化されて自己保身や自己正当化することになっているようです。いわば自己の自己による自己のための判断プログラムです。

 自分では生成している意識はないのですが度々自動的に更新されたり、新しい環境に対応するために新たにプログラムが生成されているかもしれません。

 自身が生成し自身の為のプログラムです。どうしてわざわざ疑う人がいるでしょうか。

 いつもどおりプログラムにしたがって生きていけば、自覚することなく人生を送ることになりかねません。それも一つの生き方です。


  しかし、人生を真剣に生きてみると何か満たされない空虚感があるかもしれません。この空虚感やいらだちを感じるの原因が「苦」です。

 「苦」を感じさせてくれる出来事や人は本当は有難いかもしれません。目を覚まさせてくれる契機になることがあります。「苦」を「思考」によって解決できるなら誰も苦しむ人などいません。

 お釈迦様が法を説いてから何年になるのでしょうか?どれくらいの数の先人たちが学び思考してきたことでしょう。「思考」だけでは釈然としないし解決できていないようです。優秀な人の「思考」で解決できていれば理路整然とした文章で数ページで足りるはずです。

 計り知れない文字数を要して一生懸命に伝えようとしているという事実。正確に上手く表現できない証拠です。「思考」の限界を如実に見せてくれています。

 伝えたいことは「言葉・文字」を尽くしても語ることができない。「無」なのか「無限」なのか「常に変化してとらえられないこと」なのか自身で確証を得るしかありません。

 日本の中学生以上で、諸行無常や諸法無我の「言葉」の意味がわからない人は殆どいないと思われます。「言葉」の意味を理解しても何の解決のもなりません。

 個人的な悩みや葛藤を「思考」で解決できないのは、悩みや葛藤を作り出しているのが「思考」だからです。「思考」が自作自演の劇を永遠につづけていて劇を終わらせることがありません。自分で雑音を出しておきながら、雑音を雑音で消そうと一生懸命になっています。火を別の火で消そうとしたり、匂いを別の匂いで消そうとしたり、痛みを別の痛みで消そうとしているようなものです。

「聞こえる音(Input)」と「発音(Output)」の関係 犬の鳴き声は、母国語によって影響されます。 日本:ワンワン ポルトガル:アウアウ ロシア:ガブガブ 韓国:モンモン フランス:ウワウワ イタリア:バウバウ スペイン:ジャウジャウ ドイツ:ハフハフ 英語:バウワウ 中国:ウーウーだそうです。

 本来は、人間と犬では喉や声帯が異なり使い方も違うので正確に再現するには、声帯模写の方のように「発声」する必要があります。しかし、人間は自身の「言葉」で表現しようとします。「言葉」では正確に発音するには最初から無理があります。

 犬の鳴き声は何処の国でも同じはずです。聞こえていることをちゃんと表現できていません。どこの国の人でも、とりあえず簡便に(=発音できる音)だけで表現しているようです。

 つまり、「言葉=発音」はただのシンボルであって、正確には伝えられないということを如実に物語っています。

  日々耳にする犬の鳴き声でさえ適当な音でしか伝えられません。正確に伝えることなどできないということです。

 覚者と言われている人が体験したことを狭量で限定された「言葉」で正確に伝えることなどできないのではないでしょうか。「塩」の味をそのままに表現できるでしょうか。考察してみて下さい。

 「釈尊四十九年一字不説」とあるように、知られたものはすでに「それ」そのものではないので「嘘」であり「方便」だということではないでしょうか。「それ」そのものを、有限で曖昧な概念である「言葉」で表現できることや伝えることなど不可能です。ただ「月を指す指」の役割しかできません。


  どこの国の人であろうが、犬の鳴き声は確かに同じように聞こえているはずです。その鳴き声は真実であり、真実を聞いていた時は「あるがまま」の音です。「あるがまま」をそのまま見聞覚知しているのが「仏」の状態であるとしか言いようがありません。一切の不純物のないダイレクトな音をただそのまま聞こえました。善人でも悪人でも男でも女でも若者でも老人でも◯◯国人でも・・・なく空っぽ・透明・名札が張っていない「何か」が聞いているとしか言えません。

 その後の分別や解釈や意味づけや価値づけで俗っぽくなります。犬の鳴き声でお分かりのように、真実は自然に歪曲されて「あるがまま」からかけ離れた「偽り・まやかし・嘘」としてアウトプットされ続けることになります。極端に言えば「言葉」は全て「偽り・嘘」であって、互いの合意で成り立っているだけだということです。隠語など勝手に作れるただの記号。  ここに書かれている文章も全てが「方便」として読んでおられることと思います。くれぐれも、他のもっともらしい文章とか自分が納得する文章に出会ったとしても真に受けないほうがいいかもしれません。


<まとめ>

・”いのち”は生き残ることが大前提であり、自己保身のためのプログラムを自動生成しているようです。

・自分自身の為のプログラムを疑う人は多くはいません。

・自分が正しいのなら、迷ったり葛藤する必要はありません。

・人生を見つめ直すのには「苦」が契機となります。 ・あくまで個人的な問題では、思考では解決しないようです。

・同じように聞こえたものでも、そのままに表現することも正しく伝えることもできないようです。

・自身の洞察や見性を有限で限定されている「言葉」では伝えられないようです。

・思慮分別以前の見聞覚知は、誰でもない「仏・それ・・・」が「あるがまま(=真実・真理)」をそのままに見聞覚知しているようです。

・「言葉」や「文字」は、「方便」であってダイレクトに表現したりあらわにすることはできないようです。

・受け取る人も「自灯明」とあるように、自身の身体で確かめる必要があります。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。 引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

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