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無明ー10 [無明]

 私達は、普段の生活を送る中でどこかしっくりいかない。私は宙に浮いた存在のようだ。深いところでは「私」としての存在感覚を感じています。なんとなく、本当の自分として生活できていない。何故か迷っているような気がする。何とかして迷いから抜け出したいと感じているのではないでしょうか?

 もし、迷っていると感じているのならば「その迷っている」という感じこそが、偽り・仮の「私」が主人公として生きている(=迷い)という証です。

 そして、心の奥底で「本来の自己・本来の面目等々」で生きているという繋がりがあるという証拠なのです。迷いが無ければすでに悟っています。迷い(生死の決着がついていないところ)を抜けて、本源へ戻り一体になりたいという渇望があるのではないでしょうか。

 探究しているのは「ワタシ=自我」ではなく、本源なる「私=本来の自己」の方ではないでしょうか。

 思考の癖によって常に分離・孤立しています。既に本当の自己でありながら、迷っています。「父母未生以前の本来の面目」・「隻手の音声」等々の公案により洞察を得る必要があります。

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 お釈迦様が悟りを開かれた後に発せられた言葉に、「奇なるかな、奇なるかな、①一切衆生悉く皆な②如来の智慧徳相を具有す。ただ③妄想執着あるがゆえに証得せず」とあります。

 次の疑問を考察してみて下さい。  日本で生まれ、上記の文章を読むことができます。我々は日本人になれるでしょうか?

 お分かりのとおり、既に日本人なので新たに日本人にはなれません。日本人の国籍から外れて日本人ではありませんと宣言しても、日本人として疑う人などいません。姿を見て一言話すだけで、誰一人として日本人であることを疑う人はいません。だれもが日本人であるとかないとか考えずに見た通りで判断できるはずです。日本人であることに疑いの余地はありません。

①一切衆生  我々が既に日本人であるのと同じように、衆生(=自分が仏であると気づいていない人)が仏に変化(=トランスフォーム)することはできません。すでに日本人であると同様に、既に「仏」です。  我々が「如来・仏」を探している(=自身が仏であることを拒否しているか否定している)限り、自身の「仏性」を否定し続けて生きてくことになります。

 どう見ても日本人でしか見えないのに、日本語で「私は日本人ではありません」と言い続けるようなものです。  覚者は、証得した時に自身が既に「如来・仏」であったと知ったでけのことです。覚者であっても、感覚の痛みも、病気の苦しみもあります。しかし、それは自然で当たり前のことです。逃れたり消滅させたりできるものではなく、いつかは過ぎ去る無常の一つであると了解しているだけです。「如来・仏」だから痛みも苦しみもないなんてことはありません。お釈迦様の死に際も、吐いたり下痢したり汚物だらけになったに違いありません。普通の人間と同じ肉体であったから死んだだけのことです。

 苦を消滅できるのではなく、苦はあるがままにあるのでどうしょうもない。どうしょうもないことをいちいち気にかけない。ただ、自身をわざわざ苦しめる欲望に振り回されることはしないでしょう。無駄な思考で無駄なエネルギーも使わないでしょう。知らなくてもいいことを積極的に知ろうとはしないでしょう。過ぎ去って存在していない過去にとらわれないでしょう。存在しない未来を憂えないでしょう。羽目を外す時は羽目を外すだけでサラサラと流れるがごとし。癌にもなるし、あらゆる肉体的な苦しみを同じように感じるだけです。 ②如来の智慧徳相を具有す。  既に如来の智慧徳相を具有しているのが我々です。

   人間が得意になって振り回している有限の概念(=言葉)では「それ」を知ることはできません。


  ②の如来と同義語と思われる「言葉」を列挙してみます。参考にしてみて下さい。 「思考以前であり思考では定義できないモノ、言葉では表せないモノ、本源、究極、原初、故郷、自由、天、大いなる存在、ありのまま、あるがまま、当たり前、普通、それ、それそのもの、遍満、ゲームの終了、自己欺瞞の終焉、自己正当化の終焉、不生不滅、超意識、ハイヤーセルフ、至高の存在、永遠者、真の光、想像を越えるもの、遍在者、真実の者、真理、真実、真如、大いなる叡智、無限の愛、大神、真我、本来の面目、本来の自己、本当の自分、神、ゼロ、一、無、虚無、虚空、無限、永遠、久遠、悉有、全て、全一、全宇宙、解脱、無位の真人、素、空、阿、知りえないもの(=知りたいからの脱却)、理解できないもの(=理解しなければならないという呪縛からの脱却)、探究の終わり 等々」 --- 気楽な実験です。次の「」内の言葉の意味はなんでしょうか? 「今日は楽しい」「ケヌペジェギュ」 「It is fun today」 ミャンマー語「သင်တစ်ဦးဗ ဒများမှာ」 韓国語「당신은 부처님입니다」 ヒンディー語「तु म बहो」 タイ語「คุณคือพระพุทธเจา 」 ロシア語「Ты будда」

 今まで、学習したことがあるとか記憶にあれば意味を探ることができますが全く初めてであれば、読むこともできずに固まったことと思います。 しかし、目は思考以前に、文字だろうということと文字のような形を認識できているはずです。

 この、文字のようなものが既に見えていて認識出来ています。「分別以前の只の見聞覚知のみ」の刹那(=0.01秒)の間隔が「如来・仏」の領域です。分別が起こらず「只の見聞覚知だけ」なら多くの刹那(=如来・仏)が継続することでしょう。0.01秒後に自動的に動作するプログラムが思考のクセではないでしょうか。今、見えたものとか聞こえたものとか味わい匂い触感と、今までの記憶と照合し合致すれば自動的に構築してある判断(=観念)が下されているのが我々の分別です。

※「」内の文字をgoogle 翻訳で確認してみて下さい※


③妄想執着  今までと異なる刺激であれば、感情に変換されたり「言葉」として取り扱って反応することになるようです。この反応による思考(=分別)が「ワタシ=自我」として認識され、「私が」見た・聞いた・味わった・感じたとしているのではないでしょうか。

 頭が働くのは、見聞覚知が終わってしまった後です。頭が働いて分別(=妄想)が起こります。これが妄想であり、囚われとなるので執着となります。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。 引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

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