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無明−9 [無明]

 いのちあるものは、安全で安心して自由に生活したい。

 豊かでありたい、幸せでありたいと願っています。 しかし、豊かさとは幸せとはと自らに問うても明確な答えがありません。 そこで、財産を築き思いのままに贅沢することを目的にします。極端になると欲望が満たされれば「幸せ」であると勝手な妄想を抱くことになります。不幸でないのが幸せなのではないでしょうか。

 不幸とはこうありたいという思う願望と現実とを逐一比較して差を考え続け苦悩している自身です。

 思春期になるまでは「豊かさ」という概念すら抱くことも無かったかもしれません。親がやりくりして苦労していたことを感じる程度だったかもしれません。

 他人の家庭事情と比較することがなければ「そこそこ幸福」であり「不幸」という思いに悩まされることもなく過ごしてきたかもしれません。知らなければそのままで何の問題もありません。

 人は知ることで「苦」となることに気づかなければなりません。

 子供は子供なりに、些細なことで喧嘩したり怒られたりして苦悩していたかもしれません。

 すでに過ぎ去ったことであり、無くなったことです。我々の生は刹那の連続であり、過去のことなど綺麗サッパリ残ってはいません。

 人は成長して大人になり、職業生活や社会生活を送ることで、行動範囲や交際範囲が広がり様々な衝突や葛藤に出くわすことになります。

 人と比べることで、豊かさや幸福を求めることは自然なことです。また、現実での苦しみが増すことで自由になりたい、平安でありたいと自然に願うようになります。

 成長する過程で、様々な苦悩(騙し、裏切り、憎しみ、妬み、悪意、罵詈雑言、いじめ、叱責、陰口、誹謗中傷、等々)を経験します。若い時に経験がなく、高齢になってから詐欺に遭うと大きな痛手になります。若い頃に多くの苦悩を経験することも無駄ではありません。苦悩によって、自由や平安でありたという菩提心が芽生え仏道の道を目指す人も多いようです。

 この自由や平安でありたいと求めていることも「私=自我」の自作自演であることに気づく時がきます。何度も何度も「私=自我」が作ってきた観念を剥いでいくことになります。その度にパラドックスであったと気づきます。その都度「自己の愚かさ」に気づき「笑う」ことになります。

 幻が幻であると分かれば、始めから自由であり平安であったと理解できる筈です。  苦悩を与えてくれた人に対して、有難い導き手だと感謝するようになりたいものです。

 我々は、「私=自我=自分かわいい」に実体があるかのように思考しています。ある事象や現象は縁によって起こっているだけなのですが、起こった後に「私」を後づけしています。物事を思考で理解する”クセ”によって無理やり「私」を「主体」に仕立て上げています。このことから二元対立が起こり「主体」と「客体」に分けています。取り扱ったり掴まれる「対象=客体」と「私=主体」のある分離された二元世界で生きているとの認識から抜け出せずにいます。

 常に感受して処理(=思考)している何か(=私)がいなければ生きていけない、という思い込みが染みついています。  今ここに生きているのも、「私=自我」というシステムがちゃんと働いてくれたからに他ありません。思考こそが憂いや困難を解決するただ一つのものであるとのシステムが正常に働いていたからです。輪廻の世界が維持されている証です。

 しかし、仏道の道に入ったからには「本来の自己、本来の面目等々」と出会わなければなりません。自身で自身の生存システムを疑うという最も困難な作業に取り組んでいかなければなりません。自身が個として存在し、自身という個が世界を観ているという見方を打破しなければなりません。コペルニクス的転回を実践するのが仏道です。二元対立(=両手)から一元(=無二=片手)、一即多・多即一への大転回が起こらなければなりません。  それには、「思考に手をつけない・思考を追いかけない」ということで「思考」の連続を寸断させて「私=自我」の実体がないということを見抜くことです。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。 引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

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