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無明ー5 [無明]

 公案は、全て自身の頭の中での出来事を発見するためにあります。人類の歴史で身につけてきた習性によって苦しんでいます。混乱や葛藤の原因を自らが洞察し、クセが起こる前の「本来の自己」の洞察へと至る。

 苦によって導かれ、誰もが発見できます。発明ではなく発見です。何かに変化して成るのではなくただの発見です。すでにそこにあるものを自身で見つけ出すだけです。すなわち誰でも既にそうである自身(=仏)を知ることになります。

 あらゆる発見は既にあるのに、見つけ出せないでいたものです。アメリカ大陸、万有引力、作用反作用、エントロピー増大、フラクタル等々  お釈迦様は発明したのではなく、人間が誰もが既にそうであるものを発見したのです。発明という何かを作り出すことではありません。

 長年の間の脳の習性(=クセ)に疑いの目を注ぎ、観察していくだけです。他の発見と顕著な違いは、外の現象で確かめたりするのではありません。他から明示されても確認できません。自身で自身の感覚で、自身だけで発見しなければなりません。知識として掴むものでもありません。誰もが自身に眠っている宝物を発見するトレジャーハンターです。自身から離れられずにいます。妄想で眠っていては発見できません。全てを捨て去り、何もせずに真っ白になり空っぽになれば「それ」の方からやって来ます。

 馬鹿馬鹿しいことを一生懸命にやってきたという発見。人としてすでに救われているという発見。探究の終わりという発見。自作自演の混乱葛藤であったという発見。なにもしなくてもいいという発見。 誰もが既に仏陀であったという発見。笑うしかないパラドックスという発見。気が抜けるという発見。 愚かにも体験を求めていたという発見。全ての現れが完璧だという発見。

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「隻手の音声」 国語辞典では、「両手を打つと音が出るが、片手にはどんな音があるかということを問うもの。思慮分別を越えた絶対の境地に導くものとして、白隠が初学者のために用いた。」とあります。

 思慮分別を越えた絶対の境地ではなく、思慮分別以前の有無の入る余地のない「一・絶対無」の洞察・直知へと導く公案。

 我々が死ぬ前に後悔することが幾つかあると思われます。その中でも、人間として生きてきて「自己」というものの本当の正体を明からめることではないでしょうか。

「朝聞道。夕死可矣。朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」 ワタシ=(自我)以前の本当の自己。内なる声を聞いて「本当の自己」と一体であることがわかれば、すぐに死が訪れてもかまわい。  有限の概念で無限のものを捉えることは出来ません。発見するものは、有限の概念である「言葉」で定義された世界ではない。このパラドックスを洞察しなければなりません。

 考えれば考えるほど捉えられず離れてしまうということです。自らが大切にしてきたものをすべて脱ぎ捨てることしかないということです。通常の社会生活では、思考せよ知識を得よ。考えることで夢は叶えられる、願うことが成就する。このような人間が勝手に構築したもの以前で起こっていることを発見しなければなりません。自身の観念や思考習慣のままでは発見できないということです。

 人間にとって一番困難である「何もしない」ということによって人生最大の発見がある。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。 引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

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